共に走ることの「予示」性:1/6野辺自転車ワークショップ所感

1月6日の「野辺自転車ワークショップ」がとても素晴らしかった。国内だけに目を向けても能登の震災から始まった重苦しい年の初めで、事前の告知もあまり盛んに行っていなかったにもかかわらず、名古屋や遠くは兵庫県から来て下さった方々を含め、総勢19名の賑やかな自転車散歩となった(ありがとうございました)。

5日の「都市自転車レクチャー」も一方通行のレクチャーというよりゼミナールっぽい感じで、参加者それぞれに自転車との関わりの原風景と現在を語って頂き、AAA=All Ages and Abilities(あらゆる年齢・能力の人)に開かれた自転車都市を目指す世界的潮流を踏まえて大垣のポテンシャルを探る刺激的な時間だった。

両日の企画を結ぶものとして、「子供の視点でまちとみちを見る」という意味で「13歳の自転車地図」というコンセプトを提示していたのだが、6日に2名のキッズが参加してくれたことは嬉しい驚きだった。あくまで大人に「強さ」の鎧を外してもらうための設定のつもりで、実際に子供が一緒に走ってくれるとは思っていなかったからだ。

本物のキッズがそこにいると、(大人な)大人たちは自然とその子たちを中心に場をつくろうとする。それだけでもう、自分の狙いは達成されたといってよかった。ほぼ無風、よく晴れた空の下、車がほとんど絡まないゆったりとした平坦ルートで揖斐川系の水辺を南下するグループライドは、穏やかで和やかな祝祭だった。子供たちが先導のすぐ後ろを元気に走り、皆それぞれに近くの人とおしゃべりしたり、ただぼーっとしたりしながら自転車で滑っていく。ランチ前のゆるいグラベル区間もちょっとアドベンチャー感があって楽しかった。

キッズを連れて参加してくれた保護者の方から、その晩、「車のプレッシャーが無くて、子どもたち楽しそうでした!街にも車のプレッシャーがなく走れる環境があったら最高ですね」とメッセージを頂いた。いや本当に。日本の街の道のデザインは、そんな環境が当たり前のオランダの都市からはほど遠い。


理想に向かっていく道のりを、どんな風に進んでいけばいいか。最近レベッカ・ソルニットの『暗闇のなかの希望』(井上利男・東辻賢治郎訳)を読んでいて、そこから受け取ったヒントが、6日のライドの記憶と思いがけず符合した。

欠けているのは、自分たちがまだ旅の途上にあり、目的地には着いていない状態であること、そこには祝福する理由も闘いを続ける理由もどちらもあるということ、この世界は常に創造の過程にあり、完成などしていない世界だということを、認識する力だ。

「予示的政治」という用語が使われるようになって久しいが、これは、あなたが熱望するものを体現すれば、すでに成功しているという考え方を表す。つまり、あなたのアクティヴィズムが、民主主義と平和主義にもとづき、創造力を備えていれば、世界の一隅で、それらの価値がすでに勝利しているのである。この型のアクティヴィズムは、単にものごとを変革するための道具箱であるだけではなく、居所を定め、あなたの信念に従って生きるための本拠地となる。たとえそれが一時的で局地的な場であるとしても、これこそが参加の楽園であり、魂が培われるこの世の現実なのだ。

ソルニット『暗闇のなかの希望』

やや大袈裟ながら、あのライドはうっすらと、だが質的には実に「予示的」だったと思う。あそこで私たちはたぶん、「熱望するものを体現」していた。少なくとも自分にはそう感じられた。

誰かと一緒に、「強さ」を前提とせずに自転車で走ること。誰でも、どんな自転車でも基本的にウェルカムなスタンスのグループライドには、創造してゆきたい世界を今・ここに出現させる潜在力がある。クリティカルマスなどもまた、抗議行動である以前に、もうそこに現前している予示的な「参加の楽園」であり祝祭なのだ(「そこには祝福する理由も闘いを続ける理由もどちらもある」)。

今年はこんなライドをいくつもできたらいいなと思っている。

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