昨年に続き、今年も鞆の浦の沼名前神社での神能祭に参加する機会を得た。昨年の記事では福山から尾道まで通しで走る「しおまち海道」の行程について書いた。伝統文化の本質は、同じことを繰り返し行うことにある。ところが、今年は猛暑にも程がある暑さだ。そこを考慮してルートは短縮した。まず尾道での観光サイクリングを楽しみ、神能祭当日は福山から鞆の浦までの移動のみをサイクリングで行う形とした。
尾道では地元の友人に向島に美味しいアイスクリーム店があることを事前に教えてもらっていた。尾道から渡船で向島に渡り、猛暑の中でのサイクリングには格別の涼を与えてくれるアイスクリームを味わった。やはり当地に明るい知己があるということは大きなことだ。旅の醍醐味は新しい発見にあるが、その発見を導いてくれる地元の人とのつながりは、旅に深い体験をもたらしてくれる。サイクリングという、地域を身体で感じる旅行スタイルにおいて、このような人とのつながりは特に価値が高い。こうしたことをきっかけに同じ土地を繰り返し訪れることは、贅沢な体験である。

福山駅で一晩宿をとり、神能祭当日は鞆の浦への道のりを自転車で辿った。昨年と同じく芦田川沿いの自転車道を走り、沼隈半島を海沿いに走る。2度目ともなると地図も不要、なんとなればショートカットを見つけられるほどまでに土地勘もはたらく。猛暑のため行程を短縮したとはいえ、この区間に集中することで、かつて通った道が再度自身の体験のなかで復元されていく。
瀬戸内海に突き出した半島の地形が作り出す風景や、潮待ちの港として栄えた歴史の痕跡があるこのルートは、現代において整備された自転車道や明確な路面標示があり、この地域において自転車文化への理解が着実に根付きつつある。と、同時に、ここを自転車で走る自分自身にとっても、そこが「知らない道」から「知っている道」に変わり、「よく知った道」へと変化していく過程を味わうことになる。

沼名前神社に到着する。今年最も印象的だったのは、舞台奥にある鏡板の松の絵が復元されていたことだった。現存する中では最古と言われる移動組み立て式屋外能舞台において、復興されたばかりの鏡松は真新しく、長年使い込まれた舞台から浮いて見えてしまうのではないかと、実は事前には心配していた。
しかし実際に舞台に向かい合ってみると、絵そのものに力があり、舞台全体の中にしっかりと収まっていた。
伝統文化は変化を拒むものではなく、必要に応じて修復や復元を繰り返しながら維持される。新しく描かれた鏡松が舞台に溶け込んでいく様子を想像する。それは知らない松の絵だが、豊臣秀吉の時代から受け継がれてきた能舞台の持つ受容力の大きさもあるだろう。これを見続けることは、この先何年も何十年もこの潮待ちの道をたどる目的であり理由ともなるかもしれない。
神能祭は毎年同じ時期に、同じ舞台で、同じように奉納される。しかしその「同じ」ということの中にこそ、伝統文化の本質がある。繰り返されることによって深まる理解、年を重ねるごとに増す敬意、そして参加者それぞれの成長もある。
素人の演者として、今年もまたこの貴重な舞台に立つことができた。炎天下の野外能舞台は厳しい環境だ。猛暑という現代的な課題への適応としてサイクリング行程は短縮した。一方、神能祭は鏡松の復原という変化を受け入れながらも、その本質は変わることなく続けられている。

現代を生きる私たちにとって、同じことを繰り返すのは手間のかかることであるし、タイパ・コスパに見合わない。変化と継続の微妙なバランスの中で行われるもの、自転車もそのような一つかもしれない。それがサイクリングというツールを使って現代的な移動手段を確保しながら、数百年の歴史を持つ能舞台での奉納に参加することである。
尾道の友人との縁、猛暑への対応、鏡松の復興、そして繰り返される神能祭。これらすべてが、伝統文化の継承における現代的な意味を携えている。これらを結びつける一本の道、それが自転車で能をやりにいくことである。

来年もまた、この潮待ちの港の能舞台で、繰り返される祈りの一端を担うことができればと願っている。