日頃稽古を受けている能楽師の家中で、広島の鞆の浦で舞台をつとめる機会があるというので、昨年初めて末席に加えてもらったことがある。その能舞台というのは由緒のある神社の中にある野外能舞台である。いま日本国内でも能舞台は屋内に設置されることが多いが、この能舞台はいま現存する中では最古の移動組み立て式の屋外能舞台と言われている。夏の暑い炎天下ではあるものの、貴重な場所でまたとない体験を得られる機会でもあるので、今年も出演をさせてもらうことにした。
その能舞台は福山市の鞆の浦に鎮座する沼名前(ぬなくま)神社の境内にある。神社ではこの時期、夏の祭礼が行われている。一連の祭り行事の締めくくりとなる「神能祭」を、われわれのような謡や仕舞を習う素人が一同して奉納している。いうなれば他所の土地の祭りではあるものの、演者の端くれとしてその中に関わることができる機会でもある。
鞆は広島県福山市に属している。福山までは新幹線で行くことができる。かつては鉄道が走っていたという福山市街地と鞆だが、今は線路の跡も残っていない。そのようなときは自転車で走る道を探すのが我々の定石といえよう。
この度は、能舞台に上がるため紋付袴の着物衣装一式を持ち運ぶ必要があり、自転車でゆくには荷物が大きめである。しかし、畢竟、旅の道行とは、その道を自転車でどう走って行くかを考えることにある。
Setouchi Véloで福山と鞆を結ぶルートをさがしてみる。すると、提供されているコースをそのまま使用するのではなく、設定されているコースを元にしてオリジナルのルートを作ることができそうである。そのコースは「しおまち海道」と言った。
「潮待ちの港」という言葉がある。この言葉は主に潮の満ち引きを考慮して船が航行していた時代から使われていた。潮の干満によって船の航行速度が変わったり制限されることがあるため、港の利用者は潮の流れに合わせて船を停め、潮目が変わるのを待ったりしていた。このような港は、貿易や航海の重要な拠点となり、船の安全な停泊と効率的な航行を支えるために欠かせない役割を果たしていた。
鞆の浦は、潮待ちの港として知られる。瀬戸内海に突き出した半島と数多くの島が作り出す風景もまた、景勝地として知られる自然の遺産である。瀬戸内地域やその周辺地域の自転車快走路を発信しているSetouchi Véloにあるコースのひとつであるこの「しおまち海道」を元にして、福山の市街地から、鞆の浦のある沼隈半島をたどり、海峡では渡船で自転車を渡すことで、尾道までのルートを走行することにした。すると必然、能舞台はルートの途中の経由ポイントとなる。
サイクリングルートは、道路がつながっていることや橋によって自走することが前提となっていることが多い。それはつまり、地続きにしかルートを組むことが出来ないということでもある。しかしながら、それはどうにも不自由ではないだろうか。瀬戸内は多島美の地域である。海沿いを走ればたくさんの島が目に飛び込んでくる。海を挟んで見えている場所もまた、走りたいと思うのは自然なことではないだろうか。
しおまち海道コースルートは、沼隈半島を海沿いに走り、松永湾の先端、戸崎に至っている。提供されているコースデータではここで道は止まっているのだが、戸崎と対岸の向島には船が行き交っていることが分かる。そうすればここは道になっていると見做すのが妥当な線だ。
こうして、しおまち海道を辿ってかつて太閤・豊臣秀吉が愛用していたという能舞台で仕舞をつとめ、鞆の浦に浮かぶ仙酔島の景色を眺めつつ美味に舌鼓をうち、残りのしおまち海道を再び走り、船を駆使して自転車文化の盛んな尾道まで至る、一連のサイクリング快走路を導き出すことができた。
この道中の道路では、芦田川沿いに整備された自転車道、交差点はもちろんのこと、橋で渡河するポイントにあっても迷わずに走れる路面標示、乗り降りしやすい船着き場、瀬戸内地域において自転車文化が醸成されつつあるその先端、あるいは一端を見ることができる。