Ten diaries spanning 1893-1914 illustrate the life of a single working woman set free by the bicycle and enlivened by friendships, the Kodak, the theatre, and a connection with the natural world.
May Bragdon Diaries
1893年から1914年にかけて紡がれた10の日記群が、自転車によって解き放たれ、友情、カメラ、演劇、そして自然界との結びつきによって元気づけられた、一人の働く独身女性の生を描き出す。
ロチェスター大学の図書館の素晴らしいデジタル資料にMay Bragdon Diaries(メイ・ブラグドンの日記群)というものがある。建築家クロード・ブラグドン(1866-1946)の姉メイ・ブラグドンは、同大学の記事に書かれているように大変な自転車好きで、またアマチュア写真家として自分たちのサイクリングの様子やポートレイトを記録してもいた。ここではこの日記群から、ロチェスター周辺を自転車で駆けた当時の女性たちの肖像を抽出してみたい。
1895年9月8日、日曜日
1895年9月8日、メイはいつものように友人たちと走りに出かけた。この日の記述を日本語に訳して次に引用する。サイクリングに夢中になっている彼女たちの様子がよく分かるはずだ。
また申しぶんない日曜日 – そして幸せな一日になった。フランク・デイヴィス〔訳注:デイヴィス家の末っ子〕が九時ちょっと過ぎに来たので、ダイアナ〔訳注:メイは自分の自転車をこう呼んだ〕を引っ張り出してすぐ出発 – 涼しく気持ち良いそよ風と、美味しい空気 – ほぼ準備完了だったメアリーを自転車から下りずに拾い、ネッドのうちへ – フレデリカと彼女のお兄さん〔訳注:弟の可能性も〕とお父さんが馬車を走らせているのに遭遇。イーディスが見送ってくれた(彼女の従兄弟「モート」もいた) – フルトン通りでロウ通りへ、「新しい並木道」をリトル・リッジ通りまで。砂地の坂道で一度だけ転んだ。「第一独立」中隊の若者の一団が出発するのを待ち、狭い自転車側道を十マイルほど走行 – ものすごい難関もあった – でも私たち四人は上手く乗りこなした。
休憩は一、二度とった(三人を「狙い撃ち」) – 一度はグリースの町とウェスト・グリースの間の道脇に並んだ美しいニセアカシアの樹の下で – 居合わせた男性が風車井戸の水を汲んで私たちにくれた – 途中ちらほら目に入ったオンタリオもよくは見えなかった – フランクが頭痛を訴えたけれど、パルマに寄って食事するのは(ブロックポートまで行くのも)やめ、さっと二、三マイル南のスペンサーポートまで駆け抜けた – リンカーン・ハウス・ホテルに着き(脇の運河で写真を撮ってから)手を洗い身体の火照りを冷まして、ちょうど一時の食事となった(フランクの頭痛は昼食をとるとおさまった)。
キング夫妻と「ほおひげ」夫妻(この名前しか分からなかった) – 二組のバイシクリスト夫婦 – と一緒にテーブルを囲んだ – 食事の内容は素晴らしく、ローストポークと数え切れないくらい色々な野菜 – コーヒーとされるもの、林檎とカスタードのパイ、葡萄。話題はもちろん「自転車」で、私たちはみな打ち解けた – キング夫妻はとても感じが良かった – 給仕係の女性は「最高!」、「談話室」〔訳注:これらはMr. キングの言葉と思われる〕には手彩色の家族写真が沢山 – 本当に良い場所だった! 船に乗り運河で戻ろうか(一つの経験として)との話も出たが、結局はやめになった – それでも「三マイル、アホイ」と船乗りの真似をするキング氏。私たち四人は「もう一方の帰り道」を考えた – ゲイツを通ってライル大通りで市内へ – これに決定 – 二時頃に店を発った – メアリーと私が先頭になり一、二マイル進む – 砂地の丘の上まで – そこであの夫婦たちが見えるまで休んだ – 空は曇っていて降りそうな感じがしたが、またすぐに明るく晴れ渡り、私たちは三マイルほど進んで(右折一回、左折一回)ゴールデンロッドの花畑になった素敵な丘の上に至った – そこでたっぷり休憩 – 私とネッドは互いの顔写真を撮った(ネッドが構えた向きは逆光だったのでは)。
ここにはだいぶ長いこといた – やがて「ほおひげ」夫妻が視界に入った – キング夫妻はずっと先にいた – 私たちはまた数マイル飛ばして、丘の上の廃屋の脇でこの日いちばん長い休憩をとった(メアリーが疲れていた) – ペア〔訳注:洋梨〕と林檎が実り、ゴールデンロッドが生えていた – 私はダイアナの汚れを払い、自転車に乗った人たち(男性だけでなく女性も)が駆け抜けるのを皆と眺めた。原っぱを見渡す構図で(ほとんどは草と空だ)貨物列車も入った写真を撮影。
ようやくまた走り出すとすっかり元気が戻っていたので、独りでぐんぐん漕ぎ進んだ – 次の分かれ道でお爺さんが市街への距離を「四マイル半あるよ」と教えてくれた時、私は止まらず旋回しながらその情報を聞いた。そのまま自転車を走らせゲイツに到着 – 町の井戸のところで住民の男性とお喋りしながら三人が来るのを待ち – それから四人で揃ってロチェスターへ – けれども市境の外の小さな林のところで、フランクが買っていたアイスランドモスの飴〔訳注:咳止めや消炎の効果があるとされる〕を食べておく必要があった。友達になった(それぞれの)夫婦に私たちはそこで最後に追い抜かれ(この四マイル手前で追い抜いていた)、「君らはいざ走るとスピード狂だな!」と言うキング氏に同意の応答を返した。フランクはここで昼寝をしたように思う – 私たち三人は互いに抱擁と愛撫を交わした – あまり早いうちに市内に入りたくなかった – それから五時くらいに – ずいぶん歩道を押し歩いた後 – 私たちがイーディスのうちに乗り付けてみると、家にいたのは新婚の弟夫婦だけだった – 顔と手を洗い、二十分ほど腰を下ろしてから帰路につく – 一度も降車せずに十五分で走れてしまった。フランクと私が一緒にメアリーを送り、彼が私を送ってくれた – 距離計は六〇〇と四分の一マイルを指していた – 今週は一〇〇マイル! – 今日は二十八と八分の一マイル〔訳注:およそ四十五キロメートル〕 – 温かいお風呂に入り少し眠ってとびきりの夕食!を済ませると疲れも消えていた。今回はどこも痛くならなかった。
メイのカメラがとらえた女性バイシクリストたち
メイの日記群のボリュームは膨大で、自転車に関係する箇所を特定するだけでも大仕事になるだろう。一方、写真だけなら目を通すのにさほど時間はかからないので、女性と自転車が登場するものをピックアップし(ここに載せたものが全てではない)、それぞれの状況をキャプションに書き出してみた。友人たちの表情をとらえた写真が特に魅力的だ。
「世紀の変わり目」を生きた人々
「前後輪が同等サイズでチェーン駆動のセーフティー自転車の登場は革命的な出来事だった。誰でも乗りやすい自転車の普及は1890年代に大衆の移動の自由の爆発的拡大をもたらし、女性史においても重要なターニングポイントとなった」――以前の記事で自分はこう書いたが、メイ・ブラグドンの日記と写真群は、その時代を一緒に生きているかのような感覚を私たちにもたらしてくれる。
1890年代から20世紀の初めにかけて、メイの周囲では男女とも本当によく自転車に乗っていたようだ。日記群のうち筆者が目を通せているのはごく一部分に過ぎないものの、休憩しているメイたちの目の前を他の「車輪乗り」たちが何人も走り抜けていく、といった描写にぶつかったのは一度だけではない。そしてそんな日常は、乗り易い自転車が存在するだけではたぶんありえなかった。ロチェスター大による前掲の記事によると、同市を擁するモンロー郡は当時アメリカで最も充実した自転車専用の側道(sidepath ※第二次世界大戦後のsidepathとは別物)のネットワークを誇っていたのだ。
男の付き添いなしで夜が更けるまであちこちを回ったり、scorcher(自転車に乗ったスピード狂)と称されるほど走ることに熱中したり。そんなメイたちの行動に、既存の社会規範に対する反抗の意図はどれくらい含まれていたのだろうか。写真をみる限り服装はヴィクトリア朝末期のスタンダードから外れていないようだし、車体もみなスカートに対応したトップ・チューブなしのモデルである(※固定ギア車も含まれる)。日記群プロジェクトについての大学の詳報に登場するアンドレア・リースマイヤー氏(希少書・特別収蔵品担当の司書で、Bragdon Family Papersのキュレイター)の解説によると、政治的に活発な人物ではなかったメイも、職場でのジェンダー不平等について思うところを書き残しているという。
友達がいて、自転車があって、道が広がっていた。「世紀の変わり目」を生きた女性の等身大の自由を、メイの言葉と写真は飾らず伝えてくれている。