『路上の抵抗誌』

友人から教えてもらった『路上の抵抗誌』創刊号を自転車で買いに出かけた。今回(年1号ペースの予定だそう)は特集が「路上空間を歩くこと」ということもあってか自転車の話題はほとんど登場しないが、自分としては共鳴する部分の多い雑誌だ。

『路上の抵抗誌』は古今東西における路上での生活実践を見聞し、路上をめぐるさまざまな表現を集めることを目的とした雑誌です。
(中略)路上空間は私たちの営みのなかで形成され、変容してきたものです。他方で、再開発が人々の排除や分断を生んでいるように、路上空間の形成が私たちの手を離れて行われてしまっていることもまた事実です。
このような状況においてさまざまな方向から路上空間にアプローチすることは、豊かな路上のありかたを再考することにつながるでしょう。すなわち、これはひとつの抵抗なのです。

「創刊にあたって」より
高円寺の街角で『路上の抵抗誌』創刊号を手に持って撮影した写真。沢山の人が行き交う路上を描いた表紙イラストが(スケールはやや異なるが)現実の路地の風景にちょうど重なる格好になっている。
『路上の抵抗誌』創刊号

「路上空間と歩行の思想――序文にかえて(上田由至)」で言及されている、抑圧的な境界を横断し路上経験を再び自らのものとする(さらに自己からの逸脱も生じさせる)歩行のやり方は、自分の考えるサイクリングに驚くほど近い。

子供の時にはいたるところが道になった。(中略)他の人の家の庭。田畑のへり。そして藪の中。

p. 7
雪の積もった田んぼか畑のへりを自転車で進む友人の姿を撮った写真
田畑のへりをゆくマイメン
雪の積もった里山の林で自転車を肩に担いで立っている友人の写真

漂流という実験はシチュアシオニストが重視する「遊び」と切り離しえない。(中略)漂流とは、空間の諸々の境界を横切り、それらを除去するための、空間的遊びなのだ。

p. 8

遊歩者は歩行の規範的な技法を逸脱するということ。それは同時に、マジョリティの身体を前提としてつくられた路上空間に疑いの目を向けることにもなる。現在の路上空間のあり方は、力関係によって数ある可能世界の中の一つが選び取られたにすぎない。普段と違った歩き方を実践してみることは、支配的な空間表象とその実践に対する異議申し立てなのだ。

pp. 8-9

シチュアシオニストの漂流の作法がどんなものかは(まだ)知らないけれど、自分(たち)が好きなサイクリングは、想定された最適解としての道の用途が何であるかに束縛されない、いくつもの可能世界を開いてゆくものだ。乗るのが難しいところでの押し担ぎも厭わないから、自転車を使いはするものの、総体として「普段と違った歩き方」の一領域と呼んでよい気もする。都市の中で行われる場合には、移動にまつわる様々な障壁(バリア)を体験しながらの抵抗運動、異議申し立ての側面が生じることもある。

歩道橋の平坦部分のフェンス、左右それぞれの側に立てかけられた計2台の自転車の写真
日暮れ時、コンクリートの階段がついた急な坂道を、自転車を肩に担いで下る友達の写真

18名のクリエイターによる『路上の抵抗誌』、自分もしっかり読むのはまだこれからだ。今なすべき喫緊の「抵抗」を見据えながら、手にとってみてほしい(現時点での取り扱いスポット一覧)。

『帝国』の終盤で、彼ら(引用者注:アントニオ・ネグリとマイケル・ハート)は「人やものの往来に限定された空間は、生の空間へと変容されねばならない」と述べた。現在、破壊と殺戮というイスラエルの剥き出しの暴力によって、パレスチナ・ガザ地区は人やものの往来すらもままならない、文字通りの死の空間へと変えられようとしている。私たちはしかし、同時に世界中の路上で巻き起こっている抗議行動に希望を見ることをやめてはならない

上田由至氏による「編集後記」より

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