私がときおり市道を自転車で巡っているのは、決して「小さな旅情」を求めているからではない。むしろ、自転車の車輪は、路面の小さな段差やひび割れを、正直に伝えてくる振動を探っているようなものだ。仕方なく、というほうがあっているかもしれない。私が今年度に認定を受けている、市の道路モニターという肩書きは、何とも物々しく聞こえるが、その実態は「あそこが凹んでいる」「ここは亀裂だらけだ」と、いちいち報告をする地道な働きのことである。
幾度もハンドルを握り、ペダルを漕ぎ出せば、タイヤが路面と語り合う。砂や小石、段差もあれば鉄板も敷かれている。路面にあらわれる傷は、ただ目視するだけではその深さや広がりが掴みにくい。そこで、わたしは時折、特に気になった道路の損傷を見つけたときには、自転車の車輪を写り込ませた写真を撮るようにしている。例えば、ちょうどタイヤ幅ほどの亀裂が走った舗装なら、写真に収める際、前輪をさりげなくフレームの片隅に置く。タイヤ幅が目安になれば、報告書を受け取る担当者も「なるほど、これは確かに見逃せない大きさですね」と、納得されることを期待している。
もっとも、報告をしたからといって、翌朝には舗装がピカピカに生まれ変わるわけではない。市の担当箇所なら比較的迅速に対応してくれるが、道の一部が県管理、別の一部が国管理となれば話はこんがらがってくる。ひとつの道路が何人もの保護者をもっているので、どの保護者に声をかけるべきかを事前に調べ上げる必要が出てくる。
とはいえ、まったく報われないわけでもない。あるとき、路面に穴が開いた損傷を報告した箇所は、ほどなく新修繕が施されていた。わたしはその滑らかな路面をみて「ここは対応が速いな」と小さく呟きながら横を通り過ぎたこともある。このように上手くいくときもあれば、長いこと宙ぶらりんになるときもある。なお、報告に対して迅速に回答が返ってくるのは主に「この道路は市ではなく県の管轄なので、担当部署に報告を伝えておきました」という回答のときである。こういう連絡は即座に返してくるのに対比して、市が担当であるときは割と、無言である。
振り返れば、わたしの道路モニターの一環としての自転車による道路巡回は、「美しい町並みを求めて」というより、「不具合とその対応策」という現実的な作業に過ぎない。それは決して華やかな行為ではないし、しばしば縦割りだか横割りだかわからないが、境界線上で身動きがとれなくなることもある。けれども、こうしてペダルを回し、時には写真を撮り、時には説明の要る制度の内側へと報告を投じていくことは、この町の路面をわずかにでも整える一助にはなってもらいたい。
アスファルトの裂け目や微細な段差は、よほど観察しなければ見過ごされてしまう。行政という、見えない歯車の重なりによって決断がなされる仕組みのなかで、わたしの報告がどういう転がり方をして、最終的に道路補修へと結実するのかは、しばしば神秘的な謎である。それでも、今日はこの道が少しだけ快適になった。そう感じられるだけでも、わたしはまた自転車に跨がる理由を得る。
市の管轄、県・府の管轄、国の管轄、その複雑な構造の中で、わたしの小さな報告は混じり合っていく。いずれ、この些細な行為が、町のどこかの路面にて、自転車が亀裂や段差に引っかかって転倒する事故を未然に防ぐことにつながれば、それはそれはもうわたしの望外の報いなのである。