自転車と放蕩娘 (最終回)「自分がまだ生きていることを自分で確認するためのライド」未来編

前回、大岩オスカールの作品を論じたことで、この連載をひと区切りしようと考えるようになった。というのも、次の課題が見えてきたからだ。

ジェンダーについて考えながら行き当たったのは、「当事者性を中心に据えずに、どのような語り口を見つけることができるのか」である。言うまでもなく、当事者であることを軽んじるつもりはない。当事者が声を挙げなければならないような非対称な状況があるのは事実だ。ただ、その先にどのような広がりを描けばよいのかを考える時、他者への想像力や間接的な関わりがどのようにありうるのかを模索したいと考え始めている。

バスツアー、伊勢湾に面した浜辺で

去る1月15日に参加したバスツアーには、そのような関わりの種が仕込まれているように思われる。岐阜県からお隣の三重県への移動は、昨今見直され、注目を集めているマイクロツーリズムを思わせる要素がある。だが、移動自体を楽しむことの価値は、それだけでなく、個人の立場や視点を移動させながら地域を捉え直す可能性を秘めている。路地裏から海岸沿いの風景、工場夜景まで、バスと自転車ならではの動線を生み出せるのが、この旅の特徴だ。モビリティをはじめ、インフラ的な観点で都市を捉えることから始まり、さらに一歩進めて、社会における流動性や可変性を考えていく契機になるのではないだろうか。

三重県菰野町の丘陵地帯をのぞむ

本来、都市生活におけるアートとは、時間や空間を越えて個人に働きかけ、個人を根本から変えてしまう種のようなものではないかと思う。大岩オスカールの作品は、それを改めて認識させた。そのパフォーマティヴィティを受け止め、私も次のテーマを育て、連載を再開したいと思う。その時まで、さようなら!

MOBIUMのドア右側に描かれた自転車と

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