今回で、この連載も30回目を迎える。連載を始めた当初、「女性と自転車という切り口で、連載してみないか」という誘いに応じたのには、理由があった。ロードバイクで長距離を走る時に感じた感覚を言葉にすることで、私なりにフェミニストとしての立場を形にしようと考えたからだ。その動機となったのが、次の感覚だ。
「数人のグループで同じ道を走りながらも、個人の時間を楽しむような感覚は、大げさかもしれないが、共同体の理想を思わせる。」
自転車と放蕩娘 (1) 序幕編
性差を正面から扱うのではなく、他者の存在を感じながら個人の時間を楽しむバランス感覚が、この主題を考える原動力になると考えたからだ。しかしながら、言葉にしようと思い立った感覚は、この2年半、コロナ禍という状況と相まって、違う形で見えてきたように思う。2020年6月、アメリカ、ミネアポリスで黒人男性ジョージ・フロイドが白人警官によって殺害された事件に端を発した「Black Lives Matter」運動をはじめ、今年の流行語の候補に挙がったSDGsやジェンダー平等など、社会的な分断が明るみになっている。
ジェンダーに対する語り口を考える時、当事者性を中心に据えずにどのような方法があり得るのだろうか。別の言い方をすれば、女性自身が女性について語るという構図ではなく、いかにフェミニストとしての立場を伝えられるのかという問題である。この連載で、正面から女性の仕事や女性をモチーフとした作品を取り上げることはあったが、結局その枠組に留まらなかったのは、「他者との関わりをどう考えるか」について考えていたのだと気づかされる。
このような気づきを促してくれたのが、先日、東京都現代美術館で観た大岩オスカールの《クイーンズボロ橋、ニューヨーク》だ。マンハッタンの自宅から自転車に乗り、クイーンズボロ橋を渡る大岩の後ろ姿は、私にとって日常の光景とも重なる。しかし、その視線の先に想像されるのは2020年4月のニューヨークの新型コロナウイルス大流行だ。大岩は、等身大の日常から、世界を記述する。それは、日常の光景のようでありながら、他者への想像力を喚起し、世界を書き換えているように思われるのだ。