Cycling Edge 08: 能登半島(後編)

前編より続く)能登半島地震の被災地を自転車で走る2日目は、志賀町の宿を出て県道48号線を東に進み、能登島を目指す。この日は時間の関係で自転車をバンに載せて移動する。能登島でも東部の海岸線を中心に3時間ほど走った程度。復興が遅れていると言われる珠洲市方面にも行けなかった。そもそも能登は日本海側ではもっとも大きな半島であり、自転車で回れば随分と時間がかかるはずだ。

能登島への道中は前日同様に5月らしい快晴に恵まれ、緑豊かな山野と爽やかな風が心地良い。穏やかな里山の風景に震災があったことを忘れそうになる。しかし、この辺りも路面は悪く、ブルーシートをかけた家屋をしばしば見かける。一方で、田植えが終わったばかりらしく、水を湛えた稲田に短い苗が並んでいる。それは2,000年以上連綿と続く人々の営みであり、震災からの再生を伝えている。

県道48号線沿いの水田

能登半島を横断し、能登島へ渡ろうとして通行止めになる。美しい景観のツインブリッジは橋桁が壊れるなど構造的な被害が甚大と言う。そこで大きく南に迂回して能登島大橋から能登島へ渡る。こちらは被害が少なく、地震直後に一時的に使用を見合わせただけで済んだ。もしこの橋も使えなければ島は孤立し、生活や復旧は困難になる。と考えたところで、日本はすべて島だったことを思い出す。

ツインブリッジのと

能登島では最初に須曽蝦夷穴古墳を訪れる。七尾湾を見渡す高台にあり、かつての人々も行き交う船を眺めていたはずだ。古墳時代にも能登から遠く蝦夷、すなわち北海道や東北へ行き来していたわけだ。古墳は日本では珍しい高句麗式で朝鮮半島との往来も盛んであったのだろう。並んで2つある石室の内部に入ると、ひんやりとした空気に包まれる。地震による被害はなく、その堅牢さに関心する。

須曽蝦夷穴古墳の石室

昼食に向かった海鮮食堂は営業していなかった。同店のWEBサイトやGoogleマップには営業中となっている。インターネット情報は必ずしも更新されておらず、そもそも営業していない店舗も多い。これは前日の輪島も同様で、被災者からすればそれどころではないのは頷ける。幸運にも探しあてた近くのお蕎麦屋さんで蕎麦をいただく。大正時代の古民家は震災に耐え、被害は僅かだったそうだ。

生そば 槐(えんじゅ)

早めの昼食後は島の中央北側の向田漁港の駐車場にバンを停め、自転車を降ろして走り出す。舗装道路はひび割れたり、簡易舗装されていたりするものの、走行が困難というほどではない。山間の緑や海辺の青が心良く、遠く微かに立山連峰が見えたりもする。穏やかな農村や漁村の風景に被災地であることを忘れそうになる。だが、突然に大きな石の鳥居の崩壊に出くわしたりする。

野崎 大宮神社

能登島の後は対岸の七尾市をバンで回る。前日の輪島に比べて倒壊している家屋は少ないように思える。しかし、行き交う人や車両は少なく活気がない。真新しい仮設住宅も人の姿を見かけない。1200年前の平安時代から続く和倉温泉では、共同浴場である総湯は3月末に、そして22軒ある旅館は5月初めに一軒のみ営業再開したと言う。この地もまた地震の被害は大きく、未だ復興にはほど遠い。

和倉温泉 総湯

夕暮れて、のと里山海道を利用して帰路に着く。この自動車専用道路は現在も夜間は工事で通行止めになる。応急補修された路面の起伏が激しいので、ゆっくりと走るしかない。途中金沢に立ち寄る。北陸最大の都市だ。地震の被害が少なく、北陸新幹線や円安の恩恵を受けて多くの観光客で賑わっている。常に災害は格差を拡大させることを痛感させられる。

金沢駅前の鼓門

筆者は阪神・淡路大震災では住居が半壊となり、被災地から離れた実家に避難していた。交通網が破壊されていたので、当初は毎日片道4時間かけて徒歩で通勤するなど過酷な生活を強いられた。比べるのも不遜ながら、倒壊も火災も神戸では被害は勝るとも劣らない。それでも2か月ほど後にはインフラが復旧し、自宅に戻っていた。しかし能登は5か月経っても復旧は遅々として進んでいない。

今回の被災地は大都市圏から遠く離れており、交通の便が悪く、経済規模が小さい。そして何より過疎・高齢化が進み、限界集落が多い。共同体維持困難地域が、復興を契機として活性化するのだろうか。そのような疑問に明確に答えることは難しい。しかし、行き過ぎた都市化の反証としての辺境(エッジ)に能登が成り得るのではないか。そのような儚い希望を抱いた訪問だった。(特別編に続く)

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