ロッタちゃんの手続き的知識

「長くつ下のピッピ」などで有名なスウェーデンの児童文学作家アストリッド・リンドグレーン(Astrid Anna Emilia Lindgren)は、幼い少女ロッタが自転車に憧れ、乗ろうとする物語を書いている。それが「ロッタちゃんとじてんしゃ」(1971)で、盟友イロン・ヴィークランド(Maire-Ilon Wikland)による色彩豊かな挿画が添えられた楽しい絵本だ。

ロッタは自転車が欲しい。兄や姉が颯爽と乗っているからだ。何でも一緒でないと気が済まないお年頃。5歳の誕生日に期待していたが、まだ早い、三輪車で我慢しなさい、とたしなめられる。そこで近所のおばさんの物置から自転車を失敬する。だが、まともに乗りこなせるはずもなく、坂を転がり、生垣に突っ込んでしまう。不貞腐れていると、パパが小さな赤い自転車を持ってきて…といったお話。

この物語は「ロッタちゃんと赤いじてんしゃ」(1992)として映画化されている。北欧らしい玩具のような街並みや素朴な人々が魅力的。他のエピソードとともに構成されていて、自転車の話は中盤あたり。同年代の子役が生意気で愛らしいロッタを好演している。癇癪を起こし、地団駄を踏み、泣き叫び、三輪車を蹴っ飛ばす。絵本と同じく可愛らしさだけでなく、我儘で残酷な少女性が垣間見える。

盗んだ自転車で坂を転がる場面では、思わずブレーキをかけろ!と叫びそうになる。だがよく見ると、ハンドルにはブレーキ・レバーがない。ヨーロッパに多いコースター・ブレーキだろうか。筆者も一度体験したことがあり、少しペダルを逆に回すだけで強くブレーキがかかるので驚いた。余談ながら、ハンドルの左右レバーと前後輪の繋がりが逆の場合もある。ブレーキは地域差が大きいのかもしれない。

ところで、ロッタがすぐに自転車に乗ったことが解せない。生垣に突進したとは言え、倒れずに坂道を下っている。自分用の赤い自転車も、最初に兄が支えた後は、すぐに一人で乗りこなしている。普通は自転車に乗れるまで随分と苦労するはずだ。となると作者は自転車の経験があるのか疑わしい。ただ、伝記映画には自転車に乗るシーンがあるので、これは御伽噺的ご都合主義かもしれない。

筆者は補助輪なしで自転車に乗れるまで随分と時間がかかった。補助輪を外し、父親が後部を支えた状態でペダルを漕ぐ。父親が手を離すと、すぐにバランスを崩して転倒する。この繰り返しだった。だが、ある呪文が効果を発揮した。手を離しても「手で持ってるよ」と言い続けてもらったのだ。暗示的な安心感であろう、すっと力が抜けて走っていることに自分でも驚いた。その高揚感は鮮明に覚えている。

ひとたび自転車に乗れるようになると、それは自明であり、何も考えずにできるし、忘れることもない。ただし、自転車の乗り方は説明できない。だからこそ誰もが苦労する。しかし乗れるようになると、それまでの苦労が嘘のように思える。乗れない人にはまったく理解できないし、半分だけ乗れることもない。これは手続き的知識と呼ばれ、体得する能力だ。コツやノウハウもその範疇だ。

一方、数学や法律など記号や言葉で言い表せる宣言的知識と呼ばれる。以前は宣言的知識の丸暗記が求められていたが、今や記憶は機械の仕事だ。ネット検索の評価や実社会での応用など具体的な展開こそが重要になる。つまり、宣言的知識と手続き的知識の両輪でのバランスが求められている。それはクリティカル・サイクリング宣言に他ならないし、5歳のロッタが教えてくれている。

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