新年新型グループ・ライド 2021<サイドB>

おことわり

今回は「サドル沼には手を出すな」第2回の内容を予定しておりましたが、昨今の新型コロナウイルス感染症拡大の影響(なのかどうかはわからない)による自転車パーツの輸入・入荷の遅延、入荷時期不明などの事情により、取材情報不十分につき掲載内容を変更してお送りいたします。


前書き

今回は、本年の正月にお伝えした「新年新型グループ・ライド」のアナザー・ストーリーである。その記事中で確かこのようなことを書いていた。

この船に乗るときに二人は乗船所にて
電動アシスト付き自転車に乗る”旅の僧侶”と出会い
その道中道連れとなったのであるが
これはこれでまた別の機会に文章にするかもしれない

ここでいう「別の機会」を伺っていたのだが、そろそろ1年の終わりも見えてくる時期、伏線回収をせずに越年するのも如何なものかと考え、この機会に始末をつけることにした。


これより今回の本編

2021年の元日のことだ。この日の淡路島行きはCriticalCyclingの活動としてのライドでもある。だがそれだけにとどまらない。なぜなら、新年早々の朝っぱらから自転車に乗りに行こうと言って同行してくれる娘と過ごせる時間の価値とは、年に一度の初日の出の御来光が雲間に隠れて拝めなかったことを代償に払ったとしても、それを補ってお釣りがくる程であるからだ。この日、自転車に乗る動機は重層的なものだったが、なにせ私は晴れやかな正月を迎えていた。

さて、あなたは旅の僧侶に出会ったことがあるだろうか?

旅に出るということは、日常を離れて非日常の時間を生きることでもあある。それとともに、日常の自分に関連する様々なノイズをキャンセルしてくれる時間ともなりえる。また歴史的にも、旅に出ることで人々は「リセット」を行ってきたのだと、能楽師・安田登は著書「ワキから見る能世界」などの著書で述べている。能楽の演目には様々な登場人物がいるが、住んでいる世界を離れて旅をする僧侶というのはその中でも最も典型的な人物設定なのである。

私と娘はこのライドで、旅の僧と出会った。

明石港から淡路島へ自転車を渡すことができる唯一の海路である「ジェノバライン」の乗船所には、私と娘の自転車の他に、原付バイクや電動アシスト付き自転車が数台、列に並んでいた。その電動ママチャリに乗る一人の老人が、私たちを目にとめ声をかけてきた。私たちは岩屋から東浦に向かって走るつもりだと話すと、その老人は淡路島を南へ縦断していくのだという。正月から物好きなことだとふと思うが、周りから見れば私と娘とて程度の差こそあれ、同じ穴の狢かもしれない。

少々風は強いが定刻通りに船は出航する。自転車と共に船に乗り込んだ。初日の出を阻んだ曇り空、海上も風が強く波も高い。初めて乗る高速船の揺れに少々驚きを隠せない娘。ソーシャルディスタンスが十二分に取れる程度に船内に乗る乗客は少ない。ほどなくして船は淡路島の玄関口である岩屋港に到着し、私のブロンプトンと娘のGIANT、老人の電動ママチャリ、原付きバイクたち、船員によって順番に固定をはずされ、陸へと上がっていき、めいめいの方角へ出発していく。

淡路島を自転車で一周する「アワイチ」で人気のあるこの島は、いくつもの能楽の演目で登場する。祝の席で謡われることで有名な「高砂」という曲にも登場する。

高砂やこの浦船に帆を上げて

月もろともに井汐の

波の淡路の島影や

高砂とは現在の兵庫県高砂市のあたり、今回出航した明石よりも西にある。古来、モビリティの主役が海運であったことから、高砂から大阪までの航路は、昔も今もこの淡路島の島影を見ながらの道のりだったはずだ。時代は移り車輪の時代となったが、自転車に乗ることもまた漂泊のごときものである。移動しながらその土地ごとの風景を言葉や想いに残していく営みは共通のものである。また、淡路の島影はその形から自分たちの海上の現在地を推定する役目も果たしていたと推察する。

私と娘はゆっくりと岩屋から淡路島の東海岸に向けて自転車を走らせはじめた。少しづつ雲が晴れて淡い太陽の光が斜めから差し込みはじめる。しばらく走ると前方に逆光の人影が見える。一緒に船に乗ってきた老人だった。電動ママチャリならもう少しスピードを上げて走れるだろうところを、かなり徐行運転している。やがて私と娘は老人に追いついた。というよりこれは老人があえて合流を意図したペースダウンだと察するに如くはない。

走りながら老人は、もともと淡路島西側を走って南へ行こうと思っていたのだが、私と娘がこちらを走るというのを聞いて、こちらを走りたくなったのだと言う。旅行く人の道先を惑わせる精霊のような老人に、能楽・高砂に登場する不思議な老人が思い出されてくる。私と娘と老人でそのまま進み、北からの追い風に助けられたスムーズなスピードに乗りながらも、この老人はどこまでついてくるのだろうかと怪訝な心地もしてくる。

そのような私の思いを見透かしてか、老人はふと自分のことを語り始める。これもまた能楽の展開の定石だ。「シテ」と呼ばれる能楽の主人公は、老人や里の女の身なりをしているが、その実は神や精霊、または怨霊の仮の姿である。私はどうやら正月早々、複式夢幻能の世界に巻き込まれてしまっているようだ。これは流れに身を任せておいたほうがよい、そう考えた私は老人の話を聞きながら、私よりも一層「これ、誰?」と頭に大きなクエスチョンマークが浮かびそうになっている娘が快適なスピードになるよう、先頭に出て集団のコントロールを始めた。多分この老人に前を引かせると、どこかわからない世界に連れて行かれてしまう。老人はまた語りを続けた。

老人は奈良の高野山で説法を教えている身だという。その証であるバッジを懐からとり出して私に見せた。詳しくは分からないし、幽玄の世界にGoogle検索を持ち込むのも無粋だと考え、私は記憶にとどめるのみで詳細をさらに聞くことはしなかった。なにせ、電動ママチャリで元日から淡路を旅する僧侶、ということで、特にそれ以上を知る必要もない。こちらの都合の良い解釈なのかもしれないが、正月早々目出度いこと、としておくことにした。

そのまま自転車を走らせて「道の駅東浦ターミナルパーク」にたどりついた一行は、ここで食事をとることにした。ここからの復路は「新年新型グループ・ライド」としてオンラインになるため、旅の僧侶とはここで別れることになった。儚き夢は覚めにけり。

老人改め旅の僧侶は「娘のために」といって屋台のタコの足やすり身天ぷらや干し柿やらをおごってくれた。こちらが遠慮していると、仏の教えではこうして人に施すことが功徳につながるのだと言うので、それでは無下にもできないと仕方もなく、ありがたく頂戴した。娘が旅の僧侶に「こうすることが、情けは人のためならず、ということなんですね」と話しかけると旅の僧侶はいたく感心し、そうだそうだ、いい言葉を知っている、と娘を褒めた。

自転車の漂泊で旅は様々な人と出会うことがある。今回のように道行を共にすることもあるし、それが年老いた旅の僧侶に限らず、若いロードバイク実業団選手に突然「一緒に走りましょうか」とお供を申し出られて鬼のように引き回されるような理不尽が起こることもある。自転車の周りには不思議でよくわからない世界がある。不思議な世界に一時的に接近する旅路という点で、能楽と自転車には近いものがあるのかもしれない。

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