毎度のことだが、前回苦しまぎれで『孤独のグルメ』からある1話を抜き出して、なんとか原稿を書いた。すると赤松正行より「80話のうち1話だけとのことですが、今回の記事のために見直したのですか? それとも記憶力抜群とか?」という書き込みがあり、返事を書こうと思っているうちに、「ディープ・ラーニングで映画から自転車を探す」ということをいきなり始めている。いやー恐れ入りました。これはこれで研究になってしまう勢いだ。ついつい自分の感覚では、こうした学習から分析をすること自体が、あらたな編集につながるという意味で、バベルの図書館的な「万有アーカイブ」(石田英敬編『知のデジタル・シフト 誰が知を支配するのか?』弘文堂、2006年)を想像してしまう。
さて、書き込みで返信しようとしていた返信をここに書いてみたいと思う。
端的に答えれば、この記事を書くにあたって特に『孤独のグルメ』を見直してはいない(言い換えると、『孤独のグルメ』において、自転車が登場する回は他にもあるのかも知れないのだ)。ある時期ヘビーローテーションと言ってもよいくらいに、この番組の録画を見まくっていたのだった。これは性分で、面白いからというわけでもなく、ストーリーを追うとか記憶するということとも違う感覚で、見ると言うより流しているという状況だ。無論、分析しようとか、そういう意識でもなく、ただただ流す。逆に言えば、そんなたくさんの番組や映画をそうしているわけではないが、気にとまった映像は、BGMのようにそうしてみてきた。もっともyoutubeの登場がそういう行為に拍車をかけているだろうし、いまや多くの人がそうしているのではないだろうか?
この連載を始めて、最初の最初に「ゴダール『勝手に逃げろ/人生』(1979年)、ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』(1987年)、北野武『3-4X10月』(1990年)、マルズィエ・メシュキニ『私が女になった日』(2002年)、ハイファ・アル=マンスール『少女は自転車にのって』(2012年)等々」について書くことになるだろうとしたわりには、ここに上がっている中では『ラストエンペラー』のことしかまだ書いてないのだ。実のことをいうと、書いてるうちに、「あ、あのシーン」と思い出すと自転車だったりするということが続いている。しかし、思い出すというような記憶の仕方はしていないはずで、ベルトリッチは自転車のシーンが多いのだなぁとか、黒沢清も実はそうなんだな、と発見しているのだ。
「ディープ・ラーニングで映画から自転車を探す」という赤松正行の記事に、「目を皿にして映画を見れば良い。2倍速でもなんとかなるだろう。だが、それは面倒で退屈だ」と書いてあったのだが、はっきり言って僕はこの記事に際して、一生懸命リサーチしたり、日夜ネタを探して映像をみているわけでもないのだ。映像記憶の不思議さを感じている。人間は「ディープ・ラーニング」できないのだろうし、「ディープ・ラーニング」は人間のシミュレーションでは無いのだろうとぼんやり考える。他方で、僕にとってはかろうじて身体的な無意識の探索が、潜勢的(ヴァーチャル)なサイクリングになっているのかもしれない。
【追記】アイキャッチ画像はPaintsChainerを利用して生成しました。(2019.12.03)