自転車に「乗る」ためのレッスン 第4回 オープン・ザ・ドア

自転車という言葉の魅力は、「自ら」という点にあるような気がする。別に日本語独自というわけでもないと思うのだが、「Bicycle」という単語には強調されていないことだが、映画の中である種の自由の表象として示されるときには、やはり「自ら」に注目が向かっているのでは無いだろうか。

ベルナルド・ベルトルッチの『ラスト・エンペラー』を見てみよう。清朝最後の皇帝、溥儀を主人公にしたこの映画では、「オープン・ザ・ドア」という台詞が効果的に使われる。オープニングのシーンで、第2次世界大戦後、中国共産党に収容された溥儀が、個室で自殺未遂をはかり、扉が叩かれると同時に、清朝皇帝として呼び出される幼少期へと繋がる際、後述する紫禁城でのエピソード、満州国皇帝として日本軍に半ば幽閉されているときだ。

紫禁城のエピソードだが、それまで家臣を従えて輦(れん)に乗っていた溥儀は、イギリス人家庭教師がもたらした自転車で城内を自由に走り回るようになるのだが、これは実際史実に基づいているそうだ。映画では、自転車を得て、かしづかれ、担がれた皇帝が、自ら人生を切り開こうとしていく。そんな折、実母が亡くなり、弔いへと自転車で向かおうとする。つまり場外へと自ら赴こうということなのだが、皇帝が自由に城から出られるわけもなく、衛兵たちによって扉は閉ざされる。

映画全体のテーマとしても、このシーンはひとつのクライマックスだが、自転車の「自」が、「自ら」を解き放つ気持ちとして表象されている。同時に「自ら」の限界というか、辛亥革命の過程で有名無実化した皇帝にとっての自由は、城の中でだけという、入れ籠の存在が強調される。このシーンとにかく名場面だが、考えてみれば自転車による演出が素晴らしい必然性を持っていたと思う。

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