戦争する自転車、進撃の銀輪部隊

自転車の原型のひとつがホービーホースと呼ばれる車輪付き木馬であったように、自転車は遊びや気晴しであり、スポーツや旅行の乗り物として発達した。だが、暗い時代になると、ご多分に漏れず、自転車は戦争の道具と化す。いや、正確には戦争に利用されようとしたものの、するりと魔の手を逃れたのが自転車のようだ。それが証拠に自転車が活躍する戦争映画は思い当たらない。

第一次世界大戦中のイタリア軍ベルサリエリ部隊(Wikimedia)

戦争と自転車の文献も少ないが、ひとつ入手できたのが「知られざる特殊兵器」だ。これは「歴史群像」なる雑誌に掲載された記事のアンソロジーで、列車砲、超長距離砲、デコイ(偽装兵器)、動物兵器などなど、トンデモ兵器のオンパレード。その中に僅か8ページの「軍用自転車発展史」(初出は同誌2004年6月号)が収められている。悪い予感はそのままに、自転車の黒歴史が語られる。

この記事のリード文は「徒歩兵よりも速く、遠くに行けて、馬よりも目立たず、餌や訓練が不要。自動車より静かで、センサーに感知されにくい…そんな自転車を、軍隊が見逃すはずはない!」と煽っている。実際にも、自転車の原型であるドライジーネからして、軍用が検討されたらしい。そして、普仏戦争(1870〜71年)では、ペダルがついたオーディナリーが伝令として実戦投入された。

さらに、今日の自転車に近いセーフティー型が登場すると、各国での軍事採用が進み、自転車部隊が組織される。当記事では「自転車という最新技術によって人間の能力を拡張させることに人々は興奮し、軍や国家を無邪気に崇拝する精神とあいまって、民間の自転車とは異なる発想の軍用自転車が、驚くほど数多く提案された」としている。兵士12人が乗る十四輪車まで考案された狂騒の時代だ。

そして満を期して自転車部隊が投入された第二次ボーア戦争(1899〜1902年)では、偵察や連絡など補助的な役割は果したものの、期待されていた速力を活かした前衛や後衛の戦果は乏しかった。それにもかかわらず、夢見る自転車部隊は第一次世界大戦(1914〜1918年)にも大量に投入される。もちろん、奇跡は起こらず、装甲車や戦車などの機械化部隊が主流になっていく。

そこで、第一次世界大戦後に連合国は自転車部隊を縮小または廃止している。一方、枢軸国側のドイツやイタリアでは軍用自転車への期待が続いた。旧日本陸軍も50,000台もの自転車を徴用し、銀輪部隊と呼ばれた自転車部隊を組織し続けたのだから、ピントがずれている。太平洋戦争初期のマレー半島進撃では自転車が大活躍し、「走れ日の丸銀輪部隊」という軽快な軍歌まで作られている。

マレー半島のイギリス軍は軽く抵抗して時間を稼ぎながら、大小250本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し後退した。日本軍は、当時のマスコミが「銀輪部隊」と名づけた自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた。日本軍の歩兵は自転車に乗って完全装備で1日数十キロから100キロ近くを進撃し、浅い川であれば自転車を担いで渡河した。戦前からこの地域には日本製の自転車が輸出されていたため部品の現地調達も容易であった。(Wikipedia)

このような説明を読み、軍歌を聴けば、自転車が大活躍した様子が目に浮かぶ。よほどの快進撃ぶりに日本中が熱狂したのだろう。日本製の自転車は頑丈で性能が良く、戦地の荒野やジャングルをものともせず、進み続けたに違いない。日本から輸出された自転車が現地で普及していて、信頼のおける馴染みの相棒として活躍したわけだ。だが実際には、それほど単純な話ではないらしい。

馬や自転車を活用した日本軍であったが、重砲や車両の前進には橋梁の修復が不可欠であり、第25軍の進撃速度はすなわち橋梁の修復速度であった。(Wikipedia)

何のことはない。確かに自転車で素早く進撃はできるものの、重火器を運べない銀輪部隊だけでは、本格的な軍事作戦を展開できないのだろう。丸腰ではないにしろ、軽装備の自転車兵がどんどん先に進んでしまえば、危険かつ間抜けな状況になる。それでは、まるでコントではないか。重厚長大な戦車や大砲とは正反対の、自転車らしい微笑ましいエピソードと言える。

フィリピンの戦いでの銀輪部隊(Wikimedia)

このように、自転車は戦場で脇役を演じる程度で、本格的な活躍の場がなかった。多くのテクノロジーが戦争によって誕生し、進化したことを考えると、自転車の役立たずぶりが際立つ。いや、人殺しに寄与しなかったのだから、それを誇りに思うべきだろう。一方で、今日では自転車を使った自爆テロも起こっている。自転車は自由の翼、人に微笑みを与える存在であって欲しい。

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