日本の民俗学を確立したことで知られる柳田國男は、1931年(昭和6年)に「明治大正史 世相篇」を上梓する。その名の通り、明治と大正の世相を衣食住など全15章で構成した労作だ。歴史書のように英雄や事件を記すのではなく、人々の日常生活や人々の社会環境を見つめることによって、その時代を描き出している。その第六章は「新交通と文化輸送者」と題され、第二節に「自転車村に入る」がある。
まったくの余談ながら、「自転車村に入る」との見出しを当初、自転車村と呼ばれる村を訪ねた記録だと勘違いしていた。昭和に先立つ時代には、村人が自転車に明け暮れる特異な村が存在していたのかと期待した次第。実際には「遠野物語」のような奇譚ではなく、自転車が各地に導入され、広まった頃の淡々とした記録だ。それでは「自転車村」に記された当時の自転車世相を抜粋してみよう。
自転車村に入る(抜粋) 柳田國男
当初、自転車は娯楽品として輸入され、上流階級の楽しみであった。30年ほど前(1900年頃、明治後期)には自転車全集が発刊され、嗜輪会(しりんかい)なる自転車同好会も存在した。やがて役人などが実用品として自転車を使うようになるが、一般の人にとってはまだまだ高級品であり、女学生が羽織袴で乗車する姿が話題になり、魔風恋風(小説)の表紙になるほどであった。
一方、地方では曲乗りの見世物が行われるようになる。自転車に乗ることは難しくなかったが、実際に乗るのは好事家に限られた。しかし、輸入が増えるにつれて国内製造も始まり、組み立ての職人から実用的な工場へと発展する。古いものの破棄と国内産業の活路に適していたらしい。商店の努力もあって自転車大会が人気を博し、短期間のうちに誰もが自転車に乗るほど急速に普及したと言う。
自転車の効用は大きく、徒歩の小間使いが半減する、遠方での活動が増える、日帰りの旅程が倍になる、旅館の必要性が減った。近距離で事足りる職業の人までもが自転車に乗るようになる。農家でも自転車が購入されたが、使い道は限られた。これは農村の効率的な配置ゆえに移動が短いことと、自転車を乗りにくい場所が多かったため。また、個人向きの自転車は農村の集団行動に適さず、農機具や農作物など大量の運搬に対応できなかった。
当時の地方税のひとつに自転車税があった。この税によって持ち主の経済状況が明確になり、課税状況も正確に知られていた。関東各県では、それぞれ数万台の自転車税が課せられていたが、不作になると節税のために自転車の共用も行われた。リアカーは日本独自の発明で、ものを運ぶのに使われた。これは風呂敷文化で何かを持たねば気が済まない国民性ゆえである。都会では小型であったが、農村に伝えられると大型のリアカーになった。
自転車の運転は練習しなければならない。走る力と前方の障害物との頃合い、通り抜けたり曲がったりする際の目測、後方のことまで配慮した動きを考えることは、学校の教科以上に重要な習得ごとであった。今日では都会の人より、田舎の人のほうが躊躇せずに取扱を覚えるようになった。現代人としての資格は得やすくなったのだが、村にいると小さい頃から骨の折れる練習をしなければならない。
以上が「自転車村」の概要だ。自転車の急速な普及や自転車税に驚かされ、自転車が社会構造を刷新する様子が鮮やかだ。荷物を持ちたがる国民性がリアカーを発明したとの推察も面白い。これは続く節での記述だが「村に自転車が入ってきてから、若い者がとかく出あるいて困る」との指摘も興味深い。今日では想像しにくい事柄もあるが、大半は今も変わらぬ自転車の本質だ。自転車村は遠いようで身近にある。