フランク・パターソンのサイクリング理想郷

サイクリング・ユートピア」は、フランク・パターソン(Frank Patterson)が描いたサイクリングを題材とするペン画集だ。そこには19世紀末から20世紀半ばにかけてのイギリスの田園地帯が広がり、美しい牧草地やのどかな田舎町を背景に、自転車による行動と生活が活き活きと描かれている。戦災で多くの原画が消失したそうで、雑誌などの印刷物から100枚以上の作品を収録している。

パターソンは元々自転車乗りだったようで、自転車雑誌「Cycling」誌に送ったペン画が認められ、以降60年近くに渡って自転車を中心とした専属装画家として活躍する。片田舎の廃屋を改修して「ピア・ツリー・ファーム」と名付け、自給自足に近い生活をしながら、サイクリングと創作に勤しんだ。多くの画材を必要とせず、手軽に携行可能なペン画もまたモビリティゆえの選択だろう。

ここで、本書の英語タイトルが「Eutopia」であることに合点がいく。一般に見かけるユートピアはUtopiaと綴り、これは非現実であり夢想としての理想郷だ。これに対してEutopiaは現実的に存在する理想の場所を指す。つまり、彼が営んだ生活、そして描いた世界は、現実に存在する理想郷であったたわけだ。そのペン画は26,000点以上にものぼる。これを幸福と言わずして何と言う。

描かれた自転車は、今日の自転車に近いセーフティ型が多い。それ以外にもオーディナリ型(だるま型)や三輪型、タンデム型なども登場する。ドロップハンドルで前傾姿勢の疾走もあれば、荷物を前後に携えてのツーリングもある。晴れた穏やかな天候が多いが、激しい雷雨や暗い夜道も描かれる。一人の気ままな周遊、気の合う仲間との遠征、新婚旅行の二人連れなど走る状況も多彩で楽しい。

筆者はブライトンオックスフォードの郊外しかイギリスの田園地帯を走った経験がない。だが、それでも描かれた風景が記憶に呼応する。自然災害が少ないので、地形や建造物の変化も少ないのだろう。麗しい半自然とも言える丘陵地帯は豊かで慎み深い。一方で、Legal Vandalism(合法的破壊)と記して環境問題を憂う絵もある。この100年前の警鐘は未だに解決されていない。

まったくの余談ながら、筆者は当初パターソンの絵に馴染めなかった。それは緻密かつ記号的に描かれた遠景や細部に違和感を覚えるのだと気がついた。つまり、レンズを通した写真的視覚に支配されていたからだ。AIによって深度推定からボケを与えて自動着色を施したくなるのは、もちろん倒錯的な願望だ。この画集に描かれた世界は、今日では異なるユートピアになったのかもしれない。

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