
《千葉県の形》
The Shape of Chiba Prefecture
クワクボリョウタ
Ryota Kuwakubo
2023
キャンバスにエナメル、映像(3時間37分)
Enamel on canvas, video (3h 37′)
ライド指南:赤松正行
Ride Instruction: Masayuki Akamatsu
《千葉県の形》1)は、2023年に千葉県立美術館で開催された「千葉県誕生150周年記念事業」の一環、個展《コレクション・ネット》の中の一作品として制作したものだ。
最初に個展全体の構成を説明しておくと、県政150周年を記念して千葉県にちなんだ作品を依頼された作者が、チーバくん(千葉県のマスコットキャラクター)と対話しながら習作を重ね、最終的に「自分らしい」作品に目覚める……という、ロマン主義的なプロットで構成したメタ展覧会だった。
「習作」は全部で六点制作した。いずれも、地域アートを「地域のコンテクスト × 作家のコンテクスト」という掛け算(product)として措定し、千葉にまつわるトピックと国内外の名だたる作家の視点や技法を掛け合わせたものだ。ちなみに僕自身は千葉に特段の縁はなく、これらはいわば「借り物」によるシミュレーションである。とはいえ、決してシニカルなスタンスを気取ったわけでもない。前のめりに習作を進めること自体が、作者にとって千葉に親しむプロセスでもあったし、来場者にもその試行の過程を共有してもらうことで、千葉の再発見を促そうという真っ当な意図もあった。
習作群の終盤、さまざまな試行錯誤の末に、作者はそれらが畢竟、ただの断片をなぞっているに過ぎず、千葉県そのものを表象することなど「無理ゲー」であることに気づく。それは他ならぬチーバくんというシンボルが、千葉県のいかなる内実も表しておらず、ただ地理的な形状を示しているに過ぎないことが物語るように、すでに先人によって辿られた道筋だったのだ。おまけに習作の着想はどれも先行作家たちの模倣ではないか。ようやくその事実に思い至った作者は、「でも、やるんだよ!」2)とばかりに奮起し、「自分にしかできないこと」へと回帰。ついに光と影のインスタレーション3)《しおさいのくに》を完成させる、というツッコミ待ちの結末を迎えることになる。
念のため、順路の最後には、マルセル・デュシャンの《トランクの箱》を真似て、展覧会に関わる全作品のミニチュアを収めた箱を展示し、ここまでの創作すべてがカタログの中の出来事であることを仄めかして幕を閉じる構成にした。今回展示する《千葉県の形》は、このミニチュアの方である。そのため、当該作品以外のミニチュアも一緒に展示することにした。

作品《千葉県の形》の説明に移ろう。この作品は、展示の中では六番目の「習作」にあたる。ここで取り上げるのは、伊能忠敬とフランク・ステラである。
伊能忠敬は、江戸時代に日本初の科学的測量による全国図を手がけた上総国(現・千葉県)出身の商人だ。彼が測量を始めたのは隠居後の五十五歳の時であり、いわばセカンドキャリアにおける偉大な成功者である。彼は二度目の測量行脚で、房総半島の沿岸を歩いている。
一方のフランク・ステラは、ミニマル・アートの先駆者として知られる。かつて佐倉市にあったDIC川村記念美術館がその作品を多数所蔵していたこともあり、千葉とも浅からぬ縁がある。ステラの最初期の代表作に「ブラック・ペインティング」シリーズがある。これはキャンバスの外枠に沿って等間隔のストライプを描き込むことで、外枠の形状が絵画の内容を決定するという手法をとったものだ。さらにステラは、後に「シェイプト・キャンバス」と呼ばれる、矩形にとらわれない形状のキャンバスを用いた作品群も展開している。
千葉県は、東と南を太平洋、西を東京湾に囲まれ、北の都県境も利根川と江戸川によって画されており、県全体が水に囲まれた島のような地形をしている。つまり、水辺に沿って移動し続ければ、物理的に千葉県を一周することになる。
千葉という土地の上で前述の二人の業績を巡り合わせ、僕は次のような作品を計画した。
1. 千葉県の外周を巡り、その移動経路をGPSで記録する。
2. 得られた形状をもとにキャンバス(シェイプト・キャンバス)を製作し、その内側に均等な幅のストライプを描く。
この作品を計画した頃には、すでに生成AIの急速な普及が日々の話題となり、身の周りでは芸術のゆくえに対する期待と不安が語られ始めていた。そんな中で、この展覧会も「AI技術時代の芸術」に対するひとつの解答として構想したものだ。当時、生成AIが忌避された理由の一つに、過去の人間の創作物を回収して組み合わせただけに過ぎないという批判があった。しかし、同じ事は人間の創作活動にもそのまま当てはまるのではないか。人間の営みもまた、既にある要素をカタログから引き出し、その順列を組み替えているだけに過ぎないのではないか。もしそうでないとしたら、人間が制作することは何をもってAIと一線を画すのか。こうした問いから、ここではAIを活用するのではなく、むしろAIが到底選びそうにない「非効率」への興味を制作の原動力とした。
GPSで自らの移動軌跡を記録し、それを造形の素材にする技法自体は、特に目新しさはない。しかも、記録しようとする千葉県の外周の軌跡は、地図という形ですでに正解が出ていることの再確認にすぎない。
客観的に見れば、それはあらゆる面で無意味かつバカバカしい行為である。しかし、僕はそのバカバカしさに惹かれた。計画と、その実行に伴う膨大なコストとの間には、埋めようのない落差が横たわる。ちょっとした思いつきを「プロンプト」として自らに促し、生身の人間がそれを愚直に遂行することは、AIによる最適化とは対極の非効率な行為だ。結果を得るために、わざわざ遠回りなプロセスを身体に強いることは、AI技術の狂騒に対するダダイズム的な応答であったかもしれない。思えばダダも、機械技術が暴走した近代戦争への無力感から生まれたものではなかったか。
千葉県の外周はおよそ530kmあるという。ネットで調べるとこの外周を徒歩で歩いた先達がいて、およそ一ヶ月かかったそうだ。一ヶ月となると、それこそ忠敬のようにリタイア後に取り組まなければならない。おまけに僕は足に扁平足と外反母趾を抱えていることもあり、長距離を歩くのはそもそも苦手なのだ。さらには現実問題として、展覧会の会期も迫っていた。
そこで、歩行に代わる許容可能な譲歩案として自転車での走破を選択した。自転車であれば、「非効率さ」は劣るが、人力であることに変わりはない。ざっと調べると、六日あればなんとか一周できそうなことが分かった。早速、赤松師匠に相談し、予算に応じたロードバイクの選定や必要な装備一式の指南を仰いだ。
以下に挙げるのは、この作品のプロンプトを思いついてから、完成に至るまでに僕が遂行したタスクの数々である。
伊能忠敬の測量経路の調査/美術館でステラ作品の観察/映像と書籍からステラの制作風景を調べる/天気予報をチェックしながら旅行の予定を立てる/宿泊の手配/輪行のための練習を行い、所要時間を求める/体調を整えるために実施2ヶ月前からアルコールとカフェインの摂取を控える/自転車に乗る/危険なトンネルを迂回する/長い砂利道の走行に難儀する/タイムラプスの撮影/所々で停車し海の映像を撮影/水やエネルギーの摂取/トイレ休憩/日焼け対策/筋肉痛のケア/脚の不調に伴う旅程の変更/宿泊のキャンセル/機材のバッテリーの充電/データのバックアップ/トラックログの変換のためのプログラミング/トラックログの変換と不必要区間のデータ削除/キャンバスの手配/2.5インチの刷毛の手配/外壁塗料を1950年代当時からある銘柄から選定/支持体の構造設計/キャンバスの大きさ(=縮尺)の決定/搬出経路の確認と搬出の検証/地形をキャンバスに転写する/支持体(スタイロフォーム)の切り出し/構造強化のためのベニヤの貼り付け/ベニヤの外形の切り出し/キャンバスの貼り付け方法と接着剤の検証/キャンバスの貼り付け/キャンバスの切り出し/キャンバス側面の処理/ストライプの下書き/刷毛でストライプを塗る/下書きを消す/タイムラプス映像の編集/キャンバスを壁掛けにするための桟木を取り付ける

千葉一周には予定通り六日を要した。ただし、一度は膝の故障、もう一度は雨天のために中断している。走っている間は気分爽快だったが、案外忙しいもので、走りながら何を考えていたかは正直あまり記憶がない。レベッカ・ソルニットが『ウォークス』で描写するような、歩くことと考えることの緊密な連関のようなものは、自転車に乗っている間には生じなかった。いつでも立ち止まれる歩行とは違って、自転車に乗ることは移動効率に身体的・心理的リソースを全振りしているからかも知れない。それでもタイムラプスを見返すと、ところどころで記憶に残る風景を見つけ、その瞬間の心の状態がスナップショットとなって蘇るから不思議だ。

走ってみて気付いたことがある。それは身体の歪みの顕在化についてだ。
誰の説かは覚えていないのだが、昔ラジオで、人間の足の機能的な故障は舗装された均一な道路が引き起こすという話を聞いたことがある。人の足には個体差がある。デコボコの道であれば足への局所的な負荷が分散され、個体差によるダメージが生じることは少ない。ところが、舗装された平らな地面の上を歩くと、個体差に応じて常に同じ場所に負荷がかかり続けてしまう。そのうちに、それが病的な故障となって顕在化するというのだ。舗装道路はモータリゼーションの産物であると同時に、歩行者に安全で快適な移動をもたらした。一方で、環境の標準化は「正しい靴」や「正しい歩き方」を要請し、歩行における「正しさ」の範囲を限定してしまったとも解釈できる。
先述のように、僕は長距離を歩くと外反母趾をこじらせてしまう。しかし、自転車のペダルを漕ぐ分にはその問題を回避できると考えていた。ところが、実際に長距離を走ってみると、快調に三十キロほど走ったところで、決まって右膝の裏に痛みが走ることが分かった。思うに、これは舗装道路を歩くときに故障が生じるのと同じ理屈ではないだろうか。ペダリングという動作は、歩行以上に規則的な円運動を繰り返す。その反復のなかで、脚のわずかな弱点に負荷が集中し、蓄積した疲労で腱が痛むのだろう。つまり、標準化された装置に身体を預けたことで、僕の漕ぎ方の癖が顕在化したのだと言っていいだろう。
これは単純に僕のフォームが悪かったといえばそれまでだ。この問題に対処するためには、正しいフォームを習得するほかない。環境や道具を標準化・最適化することで、初めて個体の問題は計測可能かつ再現可能な事象となる。しかし、その標準化された環境自体が、適合するものとそうでないものの境界を鮮明にしてしまうという循環構造が生じている。これは、平らな地面を高速に走行することに最適化された装置であるロードバイクならではの、冗長性を排除した、世界と身体の関係性なのだろう。
テキストを終えるにあたっては、以上のような気づきを元に、当初の問い、つまりAI技術時代の芸術について何らかの示唆を見出すのが流れだろう。しかし、流石にそれには材料が少なすぎる。自転車もAIもまだまだ使ってみないことには分からないことだらけなのだ。実は、生成AIに結論を書かせてみたのだが、さも意味深長で示唆に富む名文を書いてよこした。もちろん却下だ。だって僕がやってきたことに意味なんてないんだから。

1) 千葉県立美術館所蔵
2) これも千葉ゆかりの名言である。詳細は「しおさいの里」を調べられたい。
3) クワクボの代表作《10番目の感傷(点・線・面)》を参照のこと。
写真:木奥恵三(図1、2)、岡本彰生(図4、映像からのスクリーンショット)
Photos: Keizo Kioku (figs. 1, 2), Akio Okamoto (fig. 4, screenshot from video)