さようなら、自転車生命体 Cycloborg

これまでの記事では『自転車生命体 Cycloborg』という作品について、その表向きの説明を中心に記してきた。本記事ではそこから一歩踏み込み、作品に込めた個人的な思いについて書いていきたいと思う。

私は2022年にIAMASに入学した。当初の目的は、赤松さんに師事し、AR(拡張現実)の研究を行うことだった。赤松ゼミのメンバーとなったことで、同時に不可逆的にクリティカルサイクリングの一員となった。クリティカルサイクリングに参加して以降、私はARのことをすっかり忘れ、自転車というモビリティと四六時中向き合う日々を送るようになった。加入直後には、自転車ペダル型シンセサイザーの開発など、自転車をテクノロジーによってハックし、さらに拡張する創作に夢中になっていた。

向き合えば向き合うほど、自転車というモビリティは、すでに完成された機械であると感じるようになった。もちろん、素材やエアロダイナミクスの研究は、現在進行形でメーカーによって行われている。しかし、その基本的な機構や、それによって生み出される機能は、大昔からほとんど変わっていない。にもかかわらず、私はこの完成された自転車に対して、あえて「無駄」とも言える機能を付け加える行為に魅了されていった。そして、このわたしの滑稽とも言える創作行為の最終的な到達点が『自転車生命体 Cycloborg』 とも言える。

自転車生命体は、自転車という機械に過剰なまでに新たな機能を付与した存在だ。利便性を至上とする現代社会において「無駄」とされる要素をあえて組み込むことで、高度テクノロジー社会そのもののあり方に対する一種のカウンターとして機能させることを主な目的として制作した。これまでの記事や修士論文では、このような作品の主たる目的について主に記述してきた。しかし、作品の制作にあたって、私はもう一つ、別の創作的な目的を抱いていた。それは「私が抱える生きづらさ」を作品として表現することだった。

作品で表現した「私が抱える生きづらさ」とは何か。正直に言えば、それを言葉で説明したくはない。なぜなら、それを言葉にすることは、私にとって決して容易なことではないからだ。むしろ、言葉で説明することが難しいからこそ、私は作品というかたちでそれを表現したのだ。しかし本記事では、その断片をあえて文章として記述してみたいと思う。

「私の抱える生きづらさを表現する」という制作目的は、修士作品として『自転車生命体 Cycloborg』を制作する際に抱いていたものだが、それについて修士論文では、記述していない。先に述べたように「私の抱える生きづらさ」というものは言葉で説明することが難しく、ましてや論文というフォーマットに落とし込むとなると、なおさら困難であったためだ。ただ『自転車生命体 Cycloborg』という作品は、社会や他者に向けられたものであると同時に、私自身の抱える生きづらさを表現する試みであり、私自身に向けられた作品(私が私に贈る作品)でもあるということを、論文という形式の中では記すことができなかったが、何らかの形で残しておきたいという思いがあった。本稿では、修士論文を補綴する場として、論文には書けなかった作品制作における、より個人的で本質的な思い、作品に込めた「私の抱える生きづらさ」について私自身の経験をたどりながら、その輪郭を少しずつ描き出していきたいと思う。

幼少期からずっと

故郷の海である伊良湖岬
出典:三木茂夫『胎児の世界―人類の生命記憶―』p.379

私は、愛知県でも最も田舎の町の一つである渥美半島で育った。『自転車生命体 Cycloborg』の映像は、この生まれ育った渥美半島で撮影している。本来であれば「田舎町でのびのびと育った」と言いたいところだが、実際にはそうではなかった。私はさまざまな問題を抱えながら高校を卒業するまでを過ごし、振り返れば、幼少期のころからずっと生きづらさを抱えていたのだと思う。

この町を離れたからといって、その生きづらさが消えたわけではない。大学進学を機に大都市へ移り住んでも状況は変わらず、さらにIAMASに進学してからも、生きづらさは私の中に残り続けた。しかし、IAMASに入学してからは、これまで感じながらも直視してこなかったこの生きづらさに、向き合うようになった。この変化の背景には、入学後に本を読む習慣が身につき、思想や理論に触れる機会が増えたことが大きい。さまざまな本を通して自分自身や社会について深く考えるようになった結果、少しずつではあるが、近づくことができたのではないかと感じている。

私は、自分の抱える生きづらさを単なる表層的な問題としてではなく、その背景や由来にまで踏み込んで見つめ直す必要があるのではないかと感じるようになった。そうした内省を重ねるなかで、この生きづらさの根の一部には、幼少期の経験や環境が深く関係しているのではないかと、精神分析的な観点から理解するようになった。これは普遍的な問題ではなく、あくまで「私」という個人の問題である。個人的な生きづらさに目を向けつつも、同時に、現代社会の環境そのもの、すなわち私を含むこの社会に生きる人々を取り巻く構造も、私の抱える生きづらさに大きく影響していると考えるようにもなっていった。

複雑な社会


ダナ・ハラウェイほか『サイボーグ・フェミニズム』(水声社、1991/2001)

自分の生きづらさの正体と向き合うなかで「私」という一個人に内在する生きづらさと、私が生きている現代の環境とが、複雑に結びついているのではないかと感じるようになった。とりわけ着目したのは、現代が高度に発達したテクノロジーと人間が共生する「高度テクノロジー社会」であるという点だ。

私は『サイボーグ・フェミニズム』という本に出会い、そこで「私たちはすでにサイボーグである」という考えに触れた。制度のような無形のテクノロジーから、電子機器やモビリティといった有形のテクノロジーに至るまで、人間はそれらとの共生なしには生きられない存在になっている。その事実を理解したとき、私の抱える生きづらさの一因がここにもあるのではないかと考えるようになった。テクノロジーは生活を豊かにし、便利にする一方で、人間を新たな規範やシステムに従わせ、知らぬ間に自由を奪っていく。効率や最適化、管理や制御といった名のもとに「より良い生活」を手に入れているはずなのに、その過程でむしろ生きづらさを深めている側面もあるのではないだろうか。

実際、こうした問題は私自身の生活のなかにも深く根付いてる。そもそも私がIAMASに入学した理由の一つも、この社会で生きていくためにテクノロジーの素養を身につける必要性を感じたからだった。生活を豊かにするはずのテクノロジーは、実際にはその恩恵を受けるために私自身の行動や思考の側を適応させることを求めてくる。「豊かさのためのテクノロジー」が、皮肉にも私を束縛しているのだ。しかもテクノロジーは加速度的に進化し、その変化に私たちは常に追随しなければならない。そのスピードは、私にとってあまりにも速く、息苦しく感じられることがある。

このように、現代のテクノロジー社会のなかで私はその恩恵を享受しながらも、確かにストレスを感じている。時折「江戸時代に生まれたかった」といった軽薄な願望が頭をよぎることすらある。しかし、タイムスリップなどできはしない。だからこそ『自転車生命体 Cycloborg』には、そんな複雑な社会から自転車と二人きりで永遠に逃避行したいという私自身の思いを込めた。ただ同時に、テクノロジーの呪縛からの解放は幻想にすぎないということも示したかった。

そのため私は、自転車に自給自足システムなどの過剰なテクノロジーをあえて付与し、人間が自転車という機械に従属する構造を作り上げた。テクノロジーからの解放を願いながらも、結局はテクノロジーで武装しなければならないという逆説は、現代社会において避けがたいものである。作品内で展開される人間と自転車との共生関係は、こうした私を含む現代人の状況を映し出そうとするものである。そして、先に述べた私個人の内面にある欲求や葛藤をも自転車との共生関係のあり方に反映させることで、私の外側と内側の双方の状況を重ね合わせ、私の抱える生きづらさを多層的に表現しようと試みた。

エヴァの呪縛

なぜ「私の抱える生きづらさ」を作品に込めようとしたのか。それは前述のとおり、これまでの人生において常に生きづらさを感じながら生きてきたこと、そしてIAMASでの生活のなかで、その生きづらさと向き合う時間を多く過ごしてきたことに起因すると説明することもできるだろう。しかし、実のところ私にとって、もはや作品を制作するという行為そのものが、自身の生きづらさを表現することと不可分になっていたというのが一番大きな理由である。その背景には、思春期の頃から生きづらさや自己の痛みを主題としたアニメや漫画から大きな影響を受けてきたことにある。

私は、思春期の頃から作者が作品のなかで「パンツを脱ぐ」行為に強く惹かれてきた。この「パンツを脱ぐ」という表現は、私の大学の先輩でもある漫画家・山田玲司氏が、作者が自らの内面に潜む隠したい部分を作品を通してさらけ出す行為を指して用いる言葉である。その代表的な例として挙げられるのが、庵野秀明が監督を務めた『新世紀エヴァンゲリオン』である。劇中に描かれる主人公シンジやその他のキャラクターたちの人間描写には、庵野監督による「パンツの脱ぎ様」が鮮烈に表れている。私は、この『新世紀エヴァンゲリオン』という作品から強い影響を受けながら人生を歩んできた。

私は中学3年生の夏、テレビで放映されていた劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』を偶然目にし、その衝撃をいまだに忘れることができない。なぜ自分がこの作品にこれほど強く惹かれるのか、その理由は当時の私にはわからなかった。しかし、その夏は一日中エヴァンゲリオンを見続ける日々を過ごした。主人公・シンジと同じ中学生だったこともあり、強烈に共鳴してしまったのかもしれない。あるいは、シンジを通して映し出される庵野秀明という人間そのものに、私は共鳴してしまったのかもしれない。

庵野秀明という人間は、自身の見られたくはない内面世界を作品を通して曝け出した。彼にとっての新世紀エヴァンゲリオンとは、自己の内面を直視するために生み出された手段であり、さらにそれを他者と共有するための装置でもあったのだろう。結果として私はその作品を通じて庵野監督の内面世界に触れ、そこに自分自身を重ねてしまった。エヴァンゲリオンという作品は庵野秀明の「自分」であると同時に、私にとっても自分の内面を映し返す鏡のような存在となったのである。

初めて『新世紀エヴァンゲリオン』を観てから10年以上が経った今でも、私はその作品に囚われ続けていると言っていいだろう。これは憧れではなく、むしろ一種のコンプレックスである。エヴァンゲリオンという作品は私にとって、感情や自己像を刻み込んだ鏡であり、鑑賞するたびに、いまだに引きずっていることへの戸惑いを突きつけてくる。その戸惑いこそが、私にとってのコンプレックスとして残り続けているのだ。『新世紀エヴァンゲリオン』を鑑賞するたびに、そこに自己を投影し、同時にその姿を嫌悪してしまうという「エヴァの呪縛」を抱えているのである。

私は「エヴァの呪縛」から解放されたいと願ってきた。その解放のために、私は自らの表現へと変換する方法を選択した。他人の作品に映し出された鏡ではなく、自分自身の作品を通して、自らの抱える生きづらさ、すなわち内面世界を直視するための鏡を持ちたい。そう強く思っていたのである。そして、私自身の内面と、私を取り巻く社会構造とが生み出す生きづらさを、私自身が見つめ直すための作品として『自転車生命体 Cycloborg』を制作した。それは庵野秀明監督のように、観る者に向かって真正面からパンツを脱ぎ、内面を曝け出すような行為とは少し異なる。私はある種、ズボンの中でそっとパンツを脱ぎ、他者の目には見えないかたちで、自分だけがその姿を見つめる、そんな仕方でパンツを脱いだのだ。つまり、他者に向けてさらけ出すのではなく、自分自身の内側と向き合うために行った行為だったのである。誰かに理解される必要はない。ただ、私自身がそれを見つめられるものを作った。それだけで今は十分なのだと私は思っている。これは『自転車生命体 Cycloborg』という作品の主題が別にあるからこそ可能だった姿勢でもある。

『自転車生命体 Cycloborg』は、私にとってひとつの区切りであると同時に、始まりでもある。庵野秀明が「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と劇場版のラストで宣言したように、私もこの作品をもって、ひとまず「エヴァの呪縛」もとい、私自身の生きづらさに囚われ続けてきた状態に区切りをつけたいと思っている。もちろん、それは完全な決別を意味するものではない。生きづらさは、これからも私の中に残り続けるだろう。しかし『自転車生命体 Cycloborg』という作品を通じて、自分自身と向き合い、それを自分自身の表現へと変換することで、私はようやく「さようなら」を言えるところまで来ることができたのだと思う。

さようなら、エヴァンゲリオン。

さようなら、IAMAS。

さようなら、自転車生命体 Cycloborg。

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