わたしはゆるく、自転車に乗る。(その8)

私は、歩くことが好きである。

時々、孤独を感じるために歩くことがある。

勿論、外に出ればそこは家の中とは異なり、私が1人だけになることが難しい開けた空間が広がっている。

道を歩けば、すれ違う人、自動車、鳥、虫。

私は、それらに紛れながら、ただ孤独に歩き続ける。向かう先は私だけが知っていて、その身体は私が動かしている。

そして、目に映った風景と足のリズムと共に思考を続ける。変わりゆく風景のこと、季節のこと、すれ違う生き物のこと、自分自身のこと・・・。

歩いている最中はまるで、冒険を始めたばかりの少年少女のような落ち着かない気持ちでもあり、あるいは自分の中にある言葉にじっと耳をすます詩人のような落ち着いた気持ちでもある。

自転車という別の移動手段を手にした今、「歩こう」と決める日は減ってきたが、気持ちがもやもやする日や身体を動かしたい時には、わざわざ外へ歩きに出る。

歩く時の気分は日によって異なる。ノリノリで歩く日もあれば、俯いて歩く日もある。

落ち込んで歩いているときに見知らぬ猫と道で出会い、少し嬉しい気持ちになることもある。

しかし、出かける前に得意げに施した化粧や着用した服が、人の目を気にした途端に「なんか恥ずかしい」という萎縮した気持ちになってしまうこともある。

歩いたら必ず「元気が出る」と言う訳ではない。それでも歩くことは魅力的だ。歩くという経験をする前と後では、私が変わるのだから。家の中にいたら変わることができなかったのだから。

健康のためでも効率のためでもない。私が思考するためだけの「歩く」時間が、私以外の何者にもなれないことを突きつけてくる。

つまり、歩いている時間だけは、私を「私」として以外は特に定義しなくて良い自由な時間だと言える。

自転車も、乗っている時の開放感があるため、好きである。

しかし、乗っていて楽しい日もあれば、苦痛に感じる日もあるのだ。

それは、身体が拡張されて開放感を感じながら進める日もあれば、その拡張が逆に私にとっては重たいものに感じられる日もあるからかもしれない。

第1回の記事で私は、「自転車に乗れば、新しい自分だけの思考のリズムを見つけられるのではないか」と書いた。しかし、自転車に乗り続けてもうすぐ1年経つが、最近の私にとって、自転車は移動効率を上げる手段としてのみ使っている状況である。それは何だか哀しい。

そのようなことを、移動効率を上げるために自転車に乗り、全力でペダルを漕いでバイト先まで向かう私が考えていたのである。

私は、孤独に浸るためだけに、自転車に乗りたい。

お し ま い

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