Dark Touring 06: IAMAS旧校舎

IAMAS(情報科学芸術大学院大学)の旧校舎は移転以降10年近く、バリケードとセキュリティ・システムに閉ざされている。そのために廃墟のような崩壊は免れている一方で、簡単には近づけない市街地の魔界といった雰囲気がある。そして近く転用または取り壊しになる可能性があるらしい。そこで、ツーリングの要素は希薄ながら、今回許可を得て旧校舎探索を実施した。7月末の酷暑日だった。

旧校舎(左上、赤丸)と現在のIAMAS(右下、青丸)の位置関係
直線距離にして約2.6km、自転車なら10分程度

筆者は旧校舎でも教員を務めていたのに対して、以下の記録は旧校舎を初めて訪れる現役学生によってまとめられている。そのような関係の違いによって観点や印象は異なるに違いない。ちなみにバリケードの外に広がる草原は、かつては校庭であった。しかも巨大な円環上の石畳が潜むだけの何もない芝生の広場。現在のキャンパスとの一番大きな違いかもしれない。

校庭でのワークショップ風景(2012年6月6日)

IAMASの校舎

IAMASはソフトピアジャパン地区内の現在のキャンパスに移転するまで、大垣市領家町にある校舎にキャンパスを構えていた。現在キャンパスのあるソフトピアジャパンは情報産業を育成、振興、集積するため岐阜県が設置したエリアであり、IAMAS以外にもさまざまなIT関連企業などが集積した先端情報産業団地である。一方で、旧校舎のある地区は周囲を岐阜県立大垣北高校や大垣市立中川小学校、東海自動車学校をはじめとした様々な教育施設が並び、大きな田んぼが校舎の窓から目に入ってくるような場所である。

また、校舎移転前後では場所としてだけでなく人数規模としても変化があった。旧校舎では、1学年20名の修士課程学生だけでなく、1学年30名程度の国際情報科学芸術アカデミーの学生も活動しており、そこで醸成された社会性も違ったものになっていたと想像される。

1996年岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー[IAMAS]開学
2000年領家町 新校舎竣工
2001年情報科学芸術大学院大学開設、メディア表現研究科(修士課程)設置
2012年岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー廃止
2014年ソフトピアジャパン地区へ移転
IAMAS沿革より
IAMAS旧校舎
現在のIAMASが入居するソフトピア・ジャパン・センター

IAMAS旧校舎探索

IAMAS旧校舎には2つの棟(旧棟、新棟とここでは呼ぶ)とマルチメディア工房の3つの建物があった。旧棟はIAMAS開学以前からあった建物であり、コンクリート製の「The 校舎」といった感じの建物である。一方新棟はIAMAS開学4年後に新たに竣工された建物で一部ガラス張りの白を基調としたキュービックな建物。そしてマルチメディア工房は湾曲した形状の屋根の上にも地上から登ることができる変わった建物である。

旧棟

入口から1階に入ると一直線に長い廊下があり、幾つもの部屋がそこに接している情景へと入っていく。私にとっては小学校でよく見た構造である。いくつかの部屋に入ると、床が剥がされた部屋や使われていない厨房がある部屋などがあり、”使われずに経年劣化した場所”というイメージが入り込んできた。そして廊下を歩いていると一緒に探索していたプロジェクトメンバーがおそらく放送室の装置を使って校内に’遊び’の放送を流すのが聞こえてきた。”イタズラ冒険”の始まりといった感じである。

1階の廊下、壁などの劣化が目立つ
学食スペースのような場所、使われなくなった調理場がある
床が湿って朽ちていく途上にある教室

過去のIAMASのプロジェクトなどの活動内容が掲載されたポスターがいくつも壁に残されている部屋があった。自律分散システムの構築やAR的なアンビエントなコミュニケーションシステムの開発、それらのパフォーミングアーツへの展開など本質的には今のメディアアート界隈で行われている研究と変わらないことが十数年前から行われていることを気付かされる。変わらないどころか、研究の大胆さが失われたことや現状の技術の複雑さや速度への対応に追われるような状況においてはある意味むしろ劣化しているとも言えるかもしれない。より飛躍的で創造的な研究を芸術の領域においてやらないでどうする、という気分にさせられる。

過去のIAMASプロジェクト紹介ポスター
ある教室の風景、カーテンや黒板など学校の原風景を想起させる
カーペットが剥がされていない教室、とても広々としている

過去の学生たちが残した学生生活感のある痕跡がいくつも見つかった。様々な黒板への落書き、学生、教員で行われているバーベキューの写真など、自由闊達な学生生活が送られていたのかな、と感じさせられる。そしてこうした落書きのには、日常の学生生活で記されたものがそのまま残ったものと、移転をきっかけに’残す’ために記されたものとの2種類があるように見られた。落書きを自分なりに解釈したり付け足したりも楽しい。

ソフトウェアアーキテクチャや愛を伝える謎めいた落書き
IAMASキャンパス移転前の学生生活の思い出写真など

最上階へ登っていくに従って校内の雰囲気が明るくなる感じがした。陽の光が差し込む量が多くなっていくからかもしれない。学校は壁の内の窓の閉める割合がとても高く日の差す量がとても多い。最上階へのぼると雨漏りを防ぐための変わった構造体があった。最初見た時は自分には流しそうめんの装置に見えたが、イーゼルに支えられた筒のたどり着く先を見るとトイレの洗面台になっており雨漏り対処であることがわかった。

廊下の風景、窓から光がよく差し込む
イーゼルで支えられた雨漏り対策機構、雨水は洗面台に注がれる

新棟

新棟に入るとまず一階に本のない本棚だけがずらりと並んだ図書館があり、そして階段を登ると旧棟ほどの数ではないが、多くの部屋が連なっていた。最上階には大学機関によくある階段上に座席が並んだ大講義室があった。旧校舎と比べると残された物が少なく、部屋の形状、機能も均質的であったが綺麗な居室たちが残っていた。

ある居室、ホワイトボードや鏡越しの作業スペースがある
ザ・大学の講義室、手前に大きなスクリーンもある
サウンド・スタジオとして使われていた部屋
壁に貼付されたわかりやすいデザイン(コース名)
壁に貼付されたわかりやすいデザイン(フロア案内)
新棟の屋上とそこから見える景色(パノラマ写真にリンク)

そして今回の探索の中で何より心に残っているのは新棟の外階段を登り、(柵を乗り越えた先にある)屋上であった。一番高い位置にあるエリアに登ると、そこにはフェンスもなく周囲360度全てを見渡すことができる開放さがあった。この場所に日常的に滞在することができた学生生活がとても羨ましく思った。

マルチメディア工房

マルチメディア工房は中に様々な環境のギャラリーが用意された建物であったが、まず入る場所を見つけ出すのが難しかった。半地下の通路から建物内に入る経路が一番デザインされたものであるように見えたが施錠管理の影響でその通路が使えない。初めて来たプロジェクトメンバー皆で模索した結果、グラウンドの草むらをかき分けていくと工房の屋根にそのまま登れることを発見した。グラウンドの高さと屋根の高さは脚を軽く上げれば難なく渡れるものだったので、設計の時点で意図された経路なのだと思う。しかし、草むらからいきなり屋根に登るという行為自体が日常の価値観から逸脱させるものであり、心に遊びをもたらす影響が仕組まれているなぁと感じた。

新棟の上階から見たマルチメディア工房
(左上の塔のような建物がソフトピア・ジャパン・センター)

屋根の上からも建物内部へ続く通路が用意されていて、そこから中に入ると細い直線的な廊下が四角形状に続いていてその脇に様々な部屋が通じている。頭上高さ15mほどあるのではないかと思われるとても高く広い空間のある部屋や、うねった構造体があり行く先が見通せない部屋、天井が網目状で屋外に対して開かれていて屋根上からも中を観覧可能な部屋など特殊で多様な部屋が様々あった。

天井のとても高いギャラリー、大仏も作れそう
大きな構造物が立ち塞がる部屋、奥には何があるのだろう
天井が網目で外と繋がっている、雨も吹き込みそう

大衆食堂マミー

そして今回は昼食をとりに、旧校舎時代多くの学生教員がお世話になったという大衆食堂「マミー」を訪れた。プラス200円で好きな付け合わせ3つを付けられるミニ定食がおすすめである。味も普通に美味しい。とある人が食べていた鰻丼も1000円とは思えないボリュームで美味しそうだった。

大衆食堂マミー、旧校舎校門を出て目の前にある
大衆食堂マミーのメニュー
カツ丼のミニ定食、彩り豊かである

探索の感想

創造としての「残すこと、残さないこと」、そして残し方

なぜ建造物は残るのか。残されたものをまた未来で体験する人は独自の解釈でそれを体験するのはもちろんだが、おそらく残した方にもただそこにあるだけの構造物を残すだけではなく、意思のようなものを働かせて何らかの解釈が伝達するような形で残しているだろう。残すことは、残す人にとってのその空間での創造であり、また残されたものを再度体験する人もその鑑賞体験は新たな想像を働かせる創造である。

しかし、ここで疑問が生じる。その場所を壊して、新たな空間を創造するのもあっても良い創造ではないか?デジタルデータとしてコンピューターにアーカイブしフィジカルは壊してはどうか?この答えのなさそうな矛盾に対して様々な意見が出たのでそれを残しておく。

残されたものに残した人の意思を感じるから、それを残したくなってしまうという意見。デジタルなもので残すにしてもVisionProの登場を待つなどより情報密度の高いものにより残すべきだという意見。情報密度が変わってもある解釈からある解釈へのバトンタッチであるから密度は結局は関係ないのではないかという意見。程度の差はあれど、どのような空間においても創造は引き出されるのだから別の建造物に変えても良いのではないか?むしろその空間がどれだけエージェントに創造を働かせられるかの基準で残す判断を行うべきではないか、そして残るのは物といった生成変化する物ではなく、人の意思、思いといった形のない普遍かもしれない何かではないかという意見。

正直、人によって残すべきという判断は全く同じにはならないであろうし、人によってその空間にどれだけの意思を感じるか、どれだけの想像を働かせられるかも大小様々であろうから、何がどう残り残らないかなんて誰にも想像できない気がする。むしろ重要なのはそうではなく、その空間に何を感じるか自分の中で価値を創造し付与すること、そしてその価値を伝えその空間が残るようなネットワークが形成されるよう体で行動し新たな社会を創造することである内在的な努力であると思った。

「広さ」/ 旧校舎での想像

今回の旧校舎の訪問・探索は自分達の学生生活・価値観にとって少なくない影響を持つ物であった。昔自分が持っていた子供時代の遊び心が誘起され、いくらでも落書きできる黒板がそこら中に広がり、窓からは変わり続ける田畑や山々が広く見渡せる。屋上で登ってボーッとすればそれだけで世界は大きく広がるだろう。そのような場所に、そこで学ぶわけでも学べるわけではないけれども、あり得たかもしれない場所として、自分と関係を感じてしまうような場所として訪れた現IAMAS生にとっては自分の学生生活をその空間にARのように照らし合わせて想像せずにはいられなかった。

では果たして今のIAMASのキャンパスは狭いのだろうか?部屋は確かに狭い。見通しも旧校舎と比べると悪い。’産業インキュベート’という名前の下に芸術が入れられて窮屈だという感覚がある。そうなのだろうか?空間的には確かに狭いだろう。作る作品が無意識的にテーブルスケールに押し込められていることを否応なく感じさせられた。しかし、人間関係、思考範囲の幅には実はもっと広がりがあるのではないか?ひょっとすると産業/経済は単純でつまらないもので芸術の敵と考えてしまいがちである。そしてそれに触れてしまうと自分達の活動をつまらないものにしてしまうという危険性ももちろん考えられることではある。

しかし、その思考自体が既に閉じた狭いものとなっている感じもある。芸術が思考や技術、産業の創造の源泉と捉えたり、産業が作品と社会の接続性に対する省察の機会であると捉えることができれば、互いの違いを理解しようとしながら共に在れる形を探し新たな創造の網を構築することができるだろうとも思う。そういったことを考慮もせずに仲間内だけで盛り上がり、他者を感覚的に毛嫌いするこの盆地でできた島の文化が必然的なものであったとしても何ともいたたまれない。外に向かう好奇心、自分の殻に閉じこもろうとする弱い精神が国際社会化、インターネットの登場によってもまだあまり変わらずむしろエコーチャンバーや世界的な保守化によってまた閉鎖的な方向にバランスが動いていることに文化の速度を感じながらも、自分自身は大きな創造を働かせていきたい。

戦争 、「網の中の創造」による抵抗

最後に、今回の体験を振り返る中である話題が大きくフィーチャーされたのでそれも残しておこうと思う。先人が残そうとしているもので、残っているのか、私たち若者が残そうとしているのかよく分からないものに戦争体験がある。自分の祖父や祖母が会話の度に戦時中の体験を語るというプロジェクトメンバーがいた。しかしそのプロジェクトメンバーはあまりその話に没頭しきれない自分がいる。むしろ祖父母に言ったことも言おうとしたこともないけれども、戦争ゲームなどで遊んでいる自分もいる。そこには、祖父母の戦時の話は大事な話だと思いながらも、そう感じきれないもどかしさ、戦争ゲームをやって楽しんでることを平常に行なっていることへの違和感を感じる自分がいる。

よくVR体験がもたらす教育的効果に関する議論の中で、戦争ゲームは人の本能的な暴力性を逃すことで解消する装置として働くから認めるべきという意見があったりする。しかし戦争ゲームをやるメンバーはゲームでキャラクターを殺すことで暴力を働いているとは感じられないという。むしろ、オンライン対戦でキャラクターの向こうに実在する人間がいると知りながらチャットなどで暴言を吐くことに暴力性を感じるという。暴力にも酒・薬物のような即時的、自動的な暴力と、倫理意識との対立の中で感じるより複雑な暴力の2種類があることを感じさせられる。

しかし、そんな戦争ゲームをやっている人もいざ今後台湾有事などで国に自分に徴兵がかかった際戦争に行くかと問われると行ってしまう気がするという。2つの対戦を経てやはり戦争は絶対的に悪ではないか、そして日本以外にも生きられる環境があると無意識的にも知っている状況においてもこう感じてしまうのが、今の自分達の世代の感覚であるように感じられる。そしてその感覚の実態を考えると、周りの自分の友人たちが何となく行ってしまうだろうから自分も行ってしまうのだろう。外に逃げてもそれまでの関係性がなくなるのであったら逃げようという気にもならないというものであった。

身体で戦地、戦争の恐怖を感じないと結局人は学べないのだろうか。では戦争体験を語りで残すことに意味はないのだろうか。ある一人のメンバーがこう言った。「塹壕に隠れながら目の前を飛んでくる大砲に、空を浮かぶドローンに殺される光景は十分想像できる。社会がうまく機能していないことによる戦争によって、社会が産んだ怪物によって自分が一方的に殺される環境に置かれることに虚しさを想像することは十分にできる。」外に逃げて関係性が消失するのがつまらないなら、仲間と共に逃げればいい。そんな結論がメンバー間で新たに創造されながら、「網の中での創造」を大事にしたいと思える今回の体験であった。

今回旧校舎を訪れたIAMAS現役学生、他に教員3名も同行

【付記】IAMAS旧キャンパス・ツーリングはIAMASの学内プロジェクト実習である運動体設計によって実施し、以下のメンバーによって記録を作成した。

太向弘明(IAMAS博士前期課程1年)
赤松正行(IAMAS教員)

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