[車輪の言葉、車輪の数] 2分の1

真夏のサイクリング中、ロードのほど近くを流れる川に頭まで浸かって、汗を流して体温を下げ、生きかえったような心地でまたペダルを回し始めることがある。近年の夏は大変暑いので、川に浸かりに行くためにサイクリングに出かけるようなことがあっても不思議はない。

着替えをする用意があるようなこと事は稀であり、水に浸かってしまうとびしょ濡れになってしまうのではないかという心配があるかもしれないが、それは要らぬ心配で、そもそも真夏のサイクリング中は汗とよだれでびしょ濡れなのだから、体に付着する液体が水に置き換わるだけである。そして走って風を受けない限りは乾く事はないのだから、そのまま走っていればすぐに乾いてしまう。

SNS等ではこのような光景のことを「ドボン」と呼んで括っていることがあるようだ。自転車に限らずともラン、特にトレイルランのように山や森を走り抜ける人びとにも目にすることがある光景だ。

「ドボン」の意味するものは、川へドボンと飛び込む、ということであり、つまり自転車に乗っている人が川へドボンしている様子を写真にとり、シェアしているものが多い。

自転車にとって人は動力源でもあり、真夏の空の下で一定時間仕事をすれば、機関冷却してやらなければならない。水分補給をグビグビと行うことも大切であり必要なのだが、夏の暑さで人の身体がひび割れてしまってはしようがない。身体の外からも冷やしてやるのが効果的だ。

筆者も夏場はこれをやったことがあるが、なんとなく全身で水の中に潜ってしまうというよりも、深さが浅い場所で体を水面に対して平行にして、いわば「寝湯」のような状態でいるのが心地が良く感じた。冷却効率としては身体全体が浸かってしまったほうがいいのだろうけれど、私としては身体半分ぐらい、しかも縦ではなく横向きに浸されているぐらいのイメージがある。


時をさかのぼって日本の平安時代、車輪といえば貴族公家が用いていた牛車のことであり、その車輪は木を素材として出来ていたことは以前にも紹介した。この木製車輪、夏場など乾燥しやすい季節にはヒビ割れが出来たりしてメンテナンスにも手間がかかっていたようだ。

片輪車文様

そこで採られていたメンテナンス方法が、車輪をドボンすることであった。車輪を牛車のフレームから取り外し、文様のモチーフのように車輪の片方だけを流水の中に浸していたのだ。

一説には、車輪が2分の1ほど水につかって、水車のようにグルグルと回転しながら水分を吸収している光景が、平安京において多くみられる一つの光景であったことから、これを図案化し、文様として工芸品や着物の柄などに取り入れられていったのだという。

この図案のような光景が当時の京都で良くみられていたのだとすると、さぞ多くの車輪をメンテナンスしていたことだろう。全ての車輪をドボンしてしまうと牛車が使用できないのだから、交換用の予備の車輪をもっており、水に浸けている間は予備をつかっていた可能性もある。予備のホイールを所有している者はだいたい好き者だとみてよい。

もともとは乾燥を防止する目的のために水に浸していた風景が、次第にモチーフとなることによって、そこには様々に意味が加えられていった。流れる水の永遠性と車輪の連続回転運動が、仏教の輪廻転生観と結びついたと見ることもできる。または、流水が大きな運命であり、それに抗する象徴として車輪が水を切り裂いているようにも読み取れる。

車輪全体ではなく半分だけが水面に姿を出しているのは、何かを訴えかけようと、半分溺れながらも回転して水面を叩き、水しぶきを上げながら声を上げている姿のようにも思える。車輪を通して何かを伝えようとする表現者が我々の先達として生きていたとすれば、車輪の持つ批評性を強化することにもつながるだろう。

以上のような背景をふまえると、「私たちはここで走っている」という声を強く発する上で「ドボン」は自転車移動時にかかる身体への負荷を回復させる理にもかなった、メッセージ性の強いパフォーマンスであり、何らかのモチーフとなりえることから、これだけたくさんの写真風景が共有されているのではないだろうか。

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