2020年1月。このWeb連載、「自転車に「乗る」ためのレッスン」について話す授業をした。正直なところ、準備を重ねた割に、自分が考えていること、書いてきたこととはなにか? を手探りで振り返る時間となり、聴講した学生にとっては、この人は何を面白がっているのだろうか? と訝られるばかりの授業となっていたに違いない。
僕にとってもこの連載は、「自転車に「乗る」ため」と称して、映像に「乗る」ためのレッスンになっているようで、映画とは、動くイメージを見るものなのだ、という至極当たり前のことを自覚しつつある。いま「映画とは」と言ったが、より正確には、「動画とは」と言うべきだろうか? さらに「動くイメージを見るもの」と言ったが、イメージの動きというべきだろうか? 僕は、物語やエピソードを追っているわけでもなく、「動き」だけを追っている。それが演出であるか否か、演じられているか否か、事実であるか否か、あまり関係ない。話ながらそんなことを考えていた。
例えば、アンドレイ・タルコフスキー監督の『サクリファイス』(1986年)を見ながら、物語を追っているのだが、そのラストシーンの長回しで、主人公アレクサンデルの住宅が炎上するシーンだが、ここで見るべきはやはり「動き」なのではないか? 意味を手繰ることに終始してはいけない。炎の動きから、あらゆる人の動き、水しぶき、自動車、そして自転車。自動車が緩慢に描く軌跡、自転車に駆け寄り、身体が伸縮し、直線に走りだす、その行方。それぞれのフレームアウト。シーンが切り替わり、自転車は自動車を追っていたわけだが、150分近いこの映画のあらすじはどうでもよく、横溢する「動き」だけが記憶に残る。
「自転車に「乗る」」方法を説明する困難同様に、「動画を「見る」」方法を説明する困難。今年の1月の授業で、そういうオーバーラップにいまさら気がついたのだった。学生にはさぞかし迷惑であったに違いないが、動画を見るとは、ただ「見る」ことなのだが、何を? と訪ねられたときに、イメージをと言ってわかりにくいとするならば、自転車を探せば良いのだ(とは言い過ぎだろうか?)。
それにしてもZoomで、自分自身を日常的に動画として見ていると、段々自分の話していることを見失い、ただ運動を追ってしまう。その醜悪さを補填するために、この数ヶ月、過剰に映画を見ている気がしなくもない。