自転車遊びには一つのジレンマがあると思う。それは、走行能力や機材グレードの向上に伴って「より遠くへ行くこと」が支配的な尺度になり、自分の生活圏が楽しみの空白地帯と化してしまうことだ。このジレンマから脱する方法の一つとして、私(東京都内市街地在住)がよくやっている、都市グラベルや暗渠を辿るサイクリングを紹介したい。
都市グラベル・都市トレイル
「グラベル」というのは雑に言えば砂利道のことである。未舗装林道などを思い浮かべてもらえればよいだろう。ここでは都市にあるグラベル道を「都市グラベル」と呼ぶ。分かりやすい例に河川敷の砂利道がある。公園や緑地にも都市グラベルがよくある。路面は土がメインで落葉や木の根も沢山、という「都市トレイル」と呼ぶべきところもあって、こちらもとても楽しい。
都市グラベルや都市トレイルで特に素晴らしいのは、丘陵の尾根にあるものだ。都市の崖上は見晴らしがよいこともあり経済的に余裕のある層の宅地になっていることが多い。だからそこが道=公共空間として残っていてしかも未舗装であるというのはとても貴重なケースといえる。実際に走ってきた上での表面的な観測としては、これは緑地保存などの活動によるところが大きいようだ(ありがとうございます)。あるいは水道施設の関係で道として開かれていることもある。
グラベルやトレイルも人の整備した道である。しかし舗装路よりも車両偏重の性質が弱く、もっといえば人類偏重の性質も相対的に弱い。そうした場が都市にも意外に多く隠れている。それらを見つけ出す行為に熱中し、自転車のコントロールを楽しみ、他の人々や動植物と共にあることの価値を再確認する。これが本当に面白い。
暗渠=水の気持ちになって走る
「暗渠」というのは蓋をされてしまった川や水路のことだ。こちらはかなり純粋に都市的な存在で、多くはドブ化による「臭いものに蓋」のプロセスを経ている。モダンな緑道になっているものもあれば、コンクリートの蓋を載せてあるだけのところもある。もちろん建物の下に潜っているものもある。耐荷重の関係だろう、車が入れないようになっているのが普通で、連続した暗渠ルートはしばしば徒歩や自転車で移動する人の回廊として機能している。
自転車で暗渠の上を走るというのはとても奇妙でアンビバレントな行為だ。暗渠化というのは川が失われるプロセスの決定的な一ページである。しかしそれによって、人は川の上を移動することができるようになる。開渠(蓋をされていない川や水路)よりも見失いやすい暗渠を辿る者は、おのずと「水の心理」に近づこうとする。自然河川ならばなるべく低いところへ、上水だったところなら反対に高さを下げないように、といった具合だ。水の流れを模倣するには、徒歩よりも自転車が向いている。
近くも遠くも、発見し続けるための移動
サイクリングの楽しみの根源は、移動によって場所から離れるのではなく、ますますそこに近づいていくことだと思う。子供がするように、生活圏の中でも不思議なもの、特別な時間を見出していけばいいのだ。この視点は、自転車遊びを粗雑な日常/非日常の二元論から解き放ってくれる。日常をつまらないものにするのは自分自身でしかない。都市グラベルや暗渠は、このことを思い出すための恰好の回路だ。
すぐそこから冒険が始まっていることを忘れず、日頃の暮らしと遊びを切り離さずにとらえること。自転車という身体拡張装置の力を借りれば、フィールドはとても大きなものになる。いつまでも知りつくせない自分の生活圏から、さらに分からないことばかりの誰かの生活圏へ。そしてまた、人間以外の存在が多数派であると実感できる場所へも。
都市グラベル、都市トレイル、暗渠、廃線跡、etc。スピードも、特別な機材や装備も要らない。ふと見かけた怪しい道に、ぜひ気軽に飛び込んでみて欲しい。