[Cyclist’s Cycles 自転車家12ヶ月] 5月(前編)

5月 

自然と共にロードバイクで走る人を自転車家と名付けて、一年を通じた道路上での自転車家の姿書き綴ってきた。その一年間をペダリングに例えるならば、今日はクランクの上死点だ。

自転車を漕いでいるときにペダルに乗った足が一番高い位置に上がっている、その状態を想像してみて欲しい。そこはペダルの一回転の中でもっとも力が抜けているか、力を入れようにも力を込めにくい、そんなポジションではないだろうか。

だから、この連載記事もいちど力を抜いて二周目を迎えるための整理をしておくことにした。


カレル・チャペック「園芸家12ヶ月」には「園芸家になるには」という前書き/序章がある。それは本記事のタイトルにも関わっていることなので、少しその文章の内容を見てみることにする。


『ほんとうの園芸家を見分ける方法をおしえよう。

ある園芸家が友人に向かって、庭を見せたいからうちへやって来たまえ、と招く。そして友人が園芸家の庭にやってくるのだが、園芸家は友人への接待も忘れて庭の手入れに没頭している、という姿が描かれる。


その間、園芸家はずっと草花や庭の手入れのことについて喋っている。その言葉は友人に向けて説明しているのか、自分自身の独り言としてつぶやいているのかは判然としない。ついには、友人は静かにその場を立ち去ってしまう。その後、園芸家と友人は再び出会うと、園芸家は何事もなかったかのように「庭を見にこないか」と誘う、といった具合だ。

本記事の「自転車家12ヶ月」という題は、チャペックの「園芸家12ヶ月」から着想したものだ。「園芸家12ヶ月」中公文庫版の翻訳者である小松太郎は、その解説の中でカレル・チャペック自身はいわゆる日曜園芸家であったのだろう、さらには、園芸マニアであったかもしれない、と書いている。この本に書かれた12ヶ月の園芸家の姿はチャペック自身なのかもしれないし、チャペックが見聞きした園芸家の姿なのかもしれない。


いずれにしてもこの本はチャペックが、園芸の現場にあって土や草花と共に生きる人びと、その目線を通して書いたものとして考えて、大きく違いはないはずだ。園芸家への観察から得られたのが「ほんとうの園芸家」かもしれないし、己の自省を込めて書かれたのかもしれない。その双方は混在している。


私は、対象こそ異なるけれども、自転車について記事を書くことに向き合うときに、日曜ロードバイク乗り、あるいは、ある一定の基準で言えば自転車マニアかもしれない、そのような自分自身の視点と相通じるものがある、と考えた次第である。



私がこの記事を書くにあたって、園芸家にとっての「庭」にあたるものは、自転車家にとっては「道の上」だと考えた。自転車家が人を自分の庭に誘いたくなったとしたら、道の上に誘うのだろう、と。


なぜそう思ったのか。これは私自身の見聞きした話になるのだが、あるとき私に、ある自転車家がこう言った。


「フレームは、消耗品だから」

自転車家は、自分の自転車を見せることよりも、道を見せるために人を誘う。その訳は、自転車の構造こそが機能的な質や美的な評価の対象となる、という考えについて、自転車家はそれほど執着していないと思ったからだ。だからこそ、この言葉を発した人は自転車家だと思った。

ロードバイクと自然との間に、身体と運動としての自転車があり、自転車によって道が引かれる。これらは一連のサイクルになっている。これが私がもっとも言いたかったことである。ロードバイクが走っていないとき、その道はロードではない。アスファルトの舗装がされた道、ターマックだ。

私が自転車家を書くために選んだ庭はロードであり道を走るロードバイクだった。12ヶ月を通して書いたことは私が道の上考えたロード乗りのことかもしれないし、他の自転車家を観察して見聞きしたロード乗りのことかもしれない。

両者はつねに混在しつつも、「ガチ」や「マニア」という言葉だけではくくらずに、自然の中を走りフレームを消耗していく様を通して、ロード乗りのことを理解する、それが本連載のクリティカルであったと考えている。

結果的には言っていることがよくわからなくて、そっと庭を後にされたとしても、自転車家はとくに気にせずに、また道路の上で話しかけるだろう。



ここからは、考察になる。

クリティカル・サイクリング宣言の綱領には、次の一節がある。

2)自転車に乗ることは、シンプルである。なぜならヒトは、平衡感覚を通じて、機能、習慣、共有を瞬時に得るとともに、事物を必要最小限に削ぎ落とす。つまりクリティカルは、エスノロジー(民族誌学)である。

私はこの一節がずっと気になっていた。

たとえば園芸家が人を自分の庭に誘うことや、自転車家が人をロードバイクで走る道に誘うことは、共有を得る、ということに還元できる。

乗ってみれば瞬時にわかる、行ってみればわかる、体験してみればわかる・・・etc

そのような対象とその現場を目の当たりにしたときに、そこに生きる人々を理解する方法論として「エスノグラフィー」がある。

エスノグラフィーは文化人類学の分野で調査研究方法として発展してきたものであり、社会においても活用されている事例がある。企業が消費者調査やサービス改善のために用いる場合もあれば、災害を経験した人びとの現場の知を明らかにし、今後の災害の教訓として用いる「災害エスノグラフィー」のような例もある。そして、これらの目的には、体験や知識などの「共有」が大きな部分を占めていると思われる。

すると「園芸家12ヶ月」における「ほんとうの園芸家」は、自分の庭に友人を招くことによって、友人に向けてエスノグラフィーを提案したのではないか。出来上がった庭、完成形だけをみせたとしてもしかたがない。それは道路上を走っていない構造としての自転車を語っているようなだけのものになってしまう。

自転車に言葉をもらうのではなく、自転車で言葉を探しに行く。そのために「自転車エスノグラフィー」として本記事を前アップデートしていくこと。それが、クリティカル・サイクリング宣言の(2)をアップデートすることにつながると思っている。


さて、これまで本連載が行ってきたように文章を記述する形式の他に、「自転車エスノグラフィ」があるとしたら、その一つの事例として、鬼頭莫宏による漫画「のりりん」を通して見てみることにしよう。

「のりりん」鬼頭莫宏 より

そして、私なりの「ほんとうの自転車家を見分ける方法」を示すことで、本サイクルの一旦の区切りとしたい。


[後編に続く]

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