タイトルから旅行記を想像すると、軽く期待を裏切られるのが本書の醍醐味ではないだろうか。日常を分裂的に旅する、80年代文化論。クリスチャン・ラクロワの香水やYMO、ブルーハーツの音楽に紛れた通奏低音は「可能世界意味論」だ。大庭健の『はじめての分析哲学』(産業図書、1990年)を下敷きに文献を渉猟する様も、気ままな自転車旅さながらといったところだ。
しかし、日常とは言っても、それは香山が自転車に乗る特殊なシチュエーションで、彼女はきまって深夜に町中を徘徊するように自転車を漕ぐ。精神科医が夜の病院の当直室から抜け出し、病院からいつお呼びがかかってもよいようポケットベルをしのばせ、貫世界・サイクリングへ出かける。患者たちの世界像に思いをめぐらせながら、深夜にも開いている本屋や映画館で情報を浴び、自己同一性が崩壊していくような心理になぞらえて、それぞれのエッセイが綴られている。
初出がマインド・サイエンスの総合誌『Imago』(1992年1月〜93年7月)の連載だったことからつい連想してしまうのは、ジェフリー・ショーの《レジブル・シティ》(1988-91)だ。インタラクティヴ・アートの代表作として知られるこの作品は、自転車を漕ぐ行為をインターフェースとして、スクリーンに映し出された文字化された都市を読解しながら徘徊していく。都市の舞台はマンハッタン、アムステルダム、カールスルーエであるが、たとえばマンハッタンは、当時のニューヨーク市長やタクシー運転手などを登場人物とする8つのフィクションから構成されている。作品の制作時期が近いということもあるが、ペダルを漕ぐのと連動して風景が走り去る感覚は、香山が綴るヴァーチャルな都市のイメージと重なるような気がしてならない。
香山のエッセイで私の興味を惹くのは、ヴァーチャルな都市との切断について書かれたくだりだ。香山は自身の移動をビデオ撮影された映像の速回し再生やビデオゲームのダンジョンRPGに喩えつつ、現実世界の認識とそれらのヴィジョンとの関係の中に、二重見当識という分裂症の症例を読む。そのきっかけとなるのが、以下の経験である。
もちろん、階段はその日、突然、そこにやって来たのではない。何千回も通ったその場所に階段があることなど、私だってよく知っていたはずだ。ただ、自転車では階段の昇り降りは困難であるという単純な事実を、私は忘れていたのである。その瞬間まで、自転車は徒歩の機能をそのまま保ちつつそれをさらに高めてくれるもの、と信じていた。しかし、そうではない。それはたしかに地面と私の下肢とを従順に接続してはくれるが同時に、地面と私の下肢のそれまでの在り方を少しずつ変えてしまうものでもあるのだ。自転車は機械なのだ、という自明の命題を、私はそれを横倒しにして階段の下まで引き摺りながら、啓示に打たれたように繰り返しつぶやいていた。
『自転車旅行主義 真夜中の精神医学』161-162頁
自転車は機械なのだという命題を「メディアなのだ」と読み替えてもよい。ヴァーチャルな想像力から身体を呼び戻し、両者を行き来させる媒介として、自転車が役割を果たしている。90年代前半の認識論をパッケージ化したかのような本書には、インターネット社会を予感させる世界像が保存されているのだ。
この本は私も持っていますが、持っているだけなので、80〜90年代のサブカルと自転車はどうだったんだろうと思いながら本稿を読みました。放蕩娘に絡めながら、このあたりも論考していただけると嬉しいな(と勝手にリクエスト)。
この本、ニューアカの残り香を感じますよね。サブカルと自転車、次回以降考えてみます〜。