[Cyclist’s Cycles 自転車家12ヶ月] 6月

6月

近年、梅雨入りや梅雨明けというステートメント(声明)が、何を指し示しているのかが判然としない。「梅雨入りしました」と聞いても雨の日が続くというわけでもなく、夏真っ盛りのような青空と暑い気温に加え高い湿度と落差の激しい夕立があり、頭が痛くなったり調子を落とす人が嘆き、昨年の雨量や過去何年かとの平均降水量などと比較してやれ多いだの少ないだのと騒ぎ、傘の忘れ物は増え、自転車に乗る人にとってもすこし都合の悪い時期、そういう出来事の起こる季節のことを指し示しているのだろうか。

梅雨と言われる季節、自転車に乗って出掛けるライドに行くのは早朝がよい。夜のうちに整えられた空気をまだ誰も掻き分けていない、ちょうど沸かしたてのいい湯加減の風呂に入ったり、またはスプーンをまだ入れていない透き通ったゼリーにひと口目をつけるときのような、そういった心地よさのようなものが早朝の時間帯を走る喜びの一つだからだ。

京都・大原の朝(筆者撮影)

この季節に自転車に乗っていると身体はつねに濡れているものだ。梅雨の雨が降り掛かって来なくても、暑さと湿気とで汗はにじみ出続けるし、登り坂で強度の高い走りをすれば鼻水とヨダレは出続ける。身体が雨で濡れてしまうことが不都合なのではなく、どちらかといえば大事な自転車のフレームが飛び跳ねた泥水で汚れたりすることや(そして自転車を綺麗に洗って乾かそうとすると丁度また雨が降るのだ)、マンホールや道路に引かれたラインに雨水が溜まりスリップしやすくなって怪我をしやすくなるので都合が悪いのである。

できればそのような不都合な季節はなるべく短く過ぎて欲しいものだが、日本の風土に合わせて生まれた気候の呼び名であるからには、稲作のように自然と折り合いをつけながら季節を歩んでいくような営みにとっては大切な、季節状態の遷移の「きっかけ」となるステートメントであることは確かなのだ。自然と共に歩むことを受け入れているからこそ、わざわざ梅雨の季節も自転車に乗るのだから、普段より路面状態に注意をはらって安全運転に心がけ、梅雨時期に特有の風景を湿気た空気と一緒に吸わせてもらえればよし、とする。

自転車に好きで乗る者たち、それをこの連載では自転車家(じてんしゃか)と呼ぶことにする。古代中国で活躍した思想家を「諸子百家(しょしひゃっか)」と呼んでいる。クリティカル・サイクリングの一連載としてのこの文章では、自転車に好きで乗るものはアスリートであり思想家である、という敬意を込めてこう呼ぶことにした。

(またこの連載の構成が、既にお気づきの読者もおられるように、カレル・チャペックの著作「園芸家12ヶ月」に範をとっていることは見てのとおりである。)

自転車家にとって、 こういう時期から盛夏にかけては、走り頃本番となる秋の季節に向けての身体の基礎練習をしておくのがよいだろう。7月になれば世界最大のロードレースの祭典「ツール・ド・フランス」が始まるから、3週間に渡るテレビ中継を見ながら、なんて素晴らしい風景だろうと思いを馳せるのもよい。

また、この連載を書くことも自分自身にとっては研究という「ロードレース」のための「足腰」の鍛錬、つまり記述することの鍛錬とも言えるのだ。そして、なぜ「自転車愛好家」や「自転車乗り」と言わずに「自転車家」という言い回しをしているのかも、先々語られることになるだろう。

自転車とアート

自転車ヘルメットはその安全性の面から、破損がなくとも一定期間で買い替えるのがよいとされている。私は持っていたヘルメットが相当古くなってきたので、新しいヘルメットを買うことにした。私の住む京都に、雰囲気というか、空気感の面白い自転車店がある。ある日、その店に行って目についたのは独特なグラフィックが施されたヘルメット、グローブ、シューズの一揃いのシリーズものと思われる自転車グッズたちだった。

私はそのヘルメットがすぐに気に入ったので手にとってよく見せてもらってから、頭にかぶって寸法やかぶり心地を試させてもらい、店主から商品の説明をいろいろと聞きながら、もうずっとそのヘルメットをかぶったまま、店を出るまで脱ぐことはなかった。まるで、オモチャを買ってもらいたがっている子供がその胸にオモチャをしっかりと抱きしめ続けるかのように、ずっとかぶり続けていた。非常に気に入ったのだ。

この私のお気に入りは、ヘルメットメーカーのGIROがカリフォルニアの芸術家、Jeremiah Kille氏とコラボレーションしたものだ。この芸術家自身もまた自転車でのアクティビティを大切にしている人だということを、私はこのヘルメットを通じて知ることになった。こういう出会いや縁をもたらしてくれるのが、私にとってこの自転車店の興味深いところである。

Jeremiah Kille氏はサーフボードビルダーでもあり、サーフィンはもちろん自転車のようなスポーツのための道具にアートを乗せるような創作には長けているのかもしれない。ヘルメットに描かれているのは彼の代表作である「風車のアート」と言われるものを元にした「作品」だった。私は、なぜこれらの自転車グッズたちにこの作品とのコラボレーションが成立したのか、ということに思いを馳せた。そして、私が感じていたことと、これらの一連の製品であり作品たちとが一つにつながった。

頭にかぶったまま脱ぎもせず、その場で代金を支払い箱も受け取らず、さっそく街乗り用のシングルスピードで二条通りを走って店を後にするまでかぶり続けていたそのヘルメットの他には、手につけるグローブと足に履くシューズとが同じテーマを持つ製品としてお店に並んでいた。これらはいずれも、身体の末端部に着て使われるものなのである。そしてその部位は自転車に乗る時に、大きく、また、頻繁に動きがある身体の箇所なのだ。

足はペダルを回し続ける。指はブレーキやシフトレバーを忙しく動かし舵をとる。頭は進行方向だけでなく周囲360度に視線を配り、上下左右に動きつづける。逆に言えば、これら以外の場所がグラグラと動いているような状態というのは自転車に乗る身体のフォームとしてあまり効率のよい状態とは言えないから、静かに静止しているほうがよいのだ。

自転車、ことさらロードレーサーにとってのアートの乗せどころはどの箇所になるだろうか。私はそれを「回転運動をする部分」だと考えている。自転車本体だけでなくそれに乗る人も含めた身体性のなかで、このJeremiah Kille氏のコレクションは、大きく、また強く、動き続ける箇所に「アート」を乗せる存在なのだ。

普通に考えると、自転車のフレームやパーツはとても細いし、空気抵抗を減らすために薄く小さい。絵を描くには適さないキャンバスだ。絵をしっかりと見せたいのなら自転車に乗っていて最も動きが少なく面積の広い箇所、例えばジャージなどに描いたほうがいい。

もちろん件のコレクションにはジャージに作品が施されたものもラインアップされている。しかし、私は末端部の3アイテムが並んだ状態で、日本国内で数少ない、これら限定商品を扱う店舗の一つであるこの店で起こった、「出会い」の話をしているのだ。

Jeremiah Kille氏の「回転するもの」としての「風車のアート」が、ライダーが自転車に乗るときに最も動かす部位に装着する物として作られていることから、私はこれら一連の製品、コラボレーションした芸術家、その芸術家の作品や思想、これらとの一連の出会いに納得を得たのである。

これが、私が自転車に乗るための新しいヘルメットを買うことで、出会うこととなったアートについて思い描いた顛末である。そういえば、京都の自転車店の店主が、昔言っていたこのような言葉を思い出した。

「赤い自転車シューズって好きなんだ。走ってると赤い靴がクルクルまわってて、その軌跡が可愛いなと思う。あ、そうそう、”赤い靴はいてた女の子”っていうのもあったしね。」

GIRO SYNTHE MIPS “Jeremiah Kille Collection” と 100copies Bicycle Art “Breakaway”

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