そういえば、と思い出して、久しぶりに、河瀬直美『沙羅双樹』(2003年)を見直す。作品前半、主人公の高校生ふたりが奈良町の路地を走るシーンだ。
高校の美術部で、俊が夕をモデルにデッサンするシーンから切り替わる。すこし古ぼけた大きな自転車のリアハブにまっすぐ立つ夕は、リュックサックを前に掛けて運転する俊の両肩に軽く掌を掛けている。恐らく、最初はふたりの自転車を車道を挟んで、併走しながら撮影しているが、広い道から徐々にせまい路地へと曲がりくねっていくうちに、真横から、斜め後ろ、真後ろへとポジションが変わっていく。正面からのショットもある。狭い路地を対向のバイクをやり過ごしたりしながら、あまり減速もせずに二人は走る。疾走というわけではなく、日常なのだろう。無言だ。自転車とすれ違ってスカートがフワッと膨らむが夕は構わず、次の路地ですこし減速したタイミングで降りる。夕は俊に一瞥したかどうかで、俊は夕を振り返らずに片手を挙げて見送る。大体そんなシーン。
僕は、後ろに直立で人を乗せて走ったこともないし、直立で乗ったこともない。このシーンにおける俊と夕の不動なポジションは、バランスの均衡のようにも見え、日常性の表出のようでもあり、古い町並みが緩やかに変化する風景を背景に、表面張力のような清々しい緊張感を表出している。デッサンのシーンから、二人は互いを意識していないわけでもないことがわけるけれど、繰り返せば、二人乗りの走りが、風景同様にひとりとひとりの表面張力にも見える。俊と夕の映画における設定、映画自体が、ドキュメンタリーとドラマの汽水域にある作品だから、この前景と背景が入れ替わりながらせめぎあう張力のリアリティは、文字通り監督の演出の成果なのだと思う(推測だが、二人には練習もさせずに、対向車も遮らずに一発撮りしていると思う)。
誰にでもありそうな体験、と思わせて、誰もしたことのない行為の再現のリアリティに映画というメディアの面白味があると、僕は考えているのだが、このシーンにはそんな醍醐味が横溢している気がしてならない。人間関係のバランスに説明がないように、自転車の乗り方にも説明はなく、一人乗りで設計された乗り物を、予めそのようにデザインされているかの如く、二人で乗りこなす高校生。「乗りこなす」と言うと、なんだか走り倒しているような印象を与えてしまうが、違う。この静的な二人乗りが、どんなアクロバットな走りよりも圧倒的に説明不能な気持ちの交流が漲っていて、言わばダンシーなデュオに見えてくる。自転車の二人乗り、日常の所作でありながら、ここに映し出された様々な関係。まだなにも起こってない出来事だけど、憧憬させられるシーン。
二人乗りをすすめるわけではないが、こうした走りをレッスンする機会なんてそう無いだろう。ここに映しだされたシーンに観られるバランス感は、デュオに見えても当然な、無意識の関係性を示している。均衡であり調和。演出された即興。
河瀬直美『沙羅双樹』(2003年)