自転車ではないが、電動の立ち乗り二輪車Ninebot mini Pro(以下、ナインボットと略)を導入した。実用的な移動手段ではなく、気晴らしの玩具に近いものの、身体のバランス感覚について様々な示唆を与えてくれる。これは「都市交通を一新する大発明」との前評判を得ながら、実際には普及しなかったセグウェイの後継機のひとつ。そのセグウェイを買収したのが、中国のナインボット社という次第。
セグウェイは左右の小さな車輪を繋ぐボードの上に立つ。これでは前か後ろに倒れそうだが、車体の傾きに応じて反対方向にモーターを回してバランスを取る。前に進みたい時は、前に体重をかける。後ろに体重をかければバックする。重心の移動で速度を調整できるので、まるで念力で操っているように感じる。モデルによって異なるが、左右に曲がるには曲がりたい方向にハンドルを傾ける方式が多い。
日本に導入された頃から何度かセグウェイに乗る機会があったものの、移動体としては魅力を感じなかった。しかし、自ら律して自ら立つ車輪はテクノロジーの結晶であり、それだけでアートとして成り立つ。一方で、セグウェイに乗る人は、なんだか格好悪いと思えてならない。観光地のセグウェイ・ツアーに興じる人たちは嬉々としているが、歩く速さと大して変わらない愚鈍な行列には苦笑いするしかない。
筆者もそうだったが、セグウェイに初めて乗る時が面白い。ボードに乗るのも勇気がいるし、思い切って乗ったとしても、セグウェイが前後に震えて止まらない。乗った人とセグウェイとがお互いにバランスを取ろうして競合してしまうからだ。これはバランスを取ろうとはせず、機械に任せるのが正解。そして、自らの制御することを放棄すれば、映画「ウォーリー」に登場するホーバー・チェアの未来人となる。
それは単に体力を使わないだけではない。身体による行為と結果としての現象の乖離こそが問題だ。それはオートバイがグリップをひねるだけで加速することに似ている。音声や脳波による動作も同じだ。セグウェイ=ナインボットが重心移動で走行するのは一見理にかなっているようで、そうではない。類似した行為と現象が他にないのだから、それは擬似的な身体性に他ならない。
養老アート・ピクニックの「バランスからだ自転車」では、あえて乗りにくい自転車を集めた。これは乗りこなすために身体能力を発揮させる仕掛けであった。そこに身体を必要とせず、勝手にバランスが取れてしまうナインボットを加えた。正反対のバランス感覚を対比させたわけだ。ただし、子供たちは軽々と乗りこなし、颯爽と駆け抜ける。彼らは頭で考えて不安がったり、過去の経験から躊躇することもない。
詰まるところ、身体感覚とは経験だろうか。逆さまハンドルしかない世界では、誰もが逆さまハンドルの自転車を乗りこなしているはずだ。それでは、セグウェイ=ナインボットの重心移動や電動車椅子WHILLのスライダー操作が自然な行為として身体化するだろうか? そうだとも、そうではないとも言い切れない何かがある。自律的移動装置が急速に発展する中で、思索と実験を繰り返す必要があるだろう。
なお、Ninebot mini Proはセグウェイに比べて車輪やハンドルが半分以下の大きさになっている。ハンドルは股下に挟んで足で左右に傾けることでカーブする。これはセグウェイ以上に擬似身体化されていると感じる。一方、スマートフォンでワイヤレス操作することも可能。ひっかかりのないタッチ・スクリーンで傍観者視線でのコントロールの難しさは、行為と現象の乖離を存分に味わえる。