この記事は、京都北部の花背から、祇園祭の鉾町まで、注連縄を自転車で運搬する、二年目の体験記である。
昨年の夏、思いつきのような心持ちで始めた祇園祭の注連縄運搬も、今年で二度目を迎えることとなった。一度きりの珍事であったものが、再び催されるということは、それがもはや偶然の産物ではなく、何かしら必然的な意味を帯びてくるものである。

昨年は半ば物好きの域を出ない企てであったが、今年は参加者も増え、その様相も随分と変わった。人数が増えるということは、単に賑やかになるということではない。それは一つの行事が、個人的な道楽から、やや公的な性格を帯びた催しへと変貌を遂げることを意味している。
たった一度の経験であっても、既に伝統の担い手のような自負の萌芽を生み出すことがある。これは人間の習性のようなもので、二度目ということが持つ特別な意味を如実に表している。一度目は「やってみる」であり、二度目は「続ける」である。そして「続ける」ことによって、それは初めて文化的な意味を獲得するのである。

人間は同じ行為を繰り返すことによって、それに意味を見出そうとする。そして意味が見出されると、それは自然に儀式化されていく。我々の注連縄運搬も、まさにその過程にあるのかもしれない。
自転車を漕ぎながら考えたのは、文化とは何かということである。文化とは、人々が意味を見出し、それを継続することによって生まれるものではないだろうか。我々の注連縄運搬も、もしかすると小さな文化の芽生えなのかもしれない。

今、既に来年のことを考えている。三年目ともなれば、もはや完全に恒例行事と呼べるだろう。そして恒例行事となったとき、我々の行為は初めて真の意味での文化的価値を獲得することになる。

思えば、現在我々が「伝統」と呼んでいるものも、すべて最初は誰かの思いつきから始まったのである。祇園祭そのものも、遠い昔には新しい試みであった。我々の小さな営為が、果たしてそのような大きな流れに連なることができるかどうかは分からない。しかし、少なくともその可能性を秘めていることは確かである。

来年もまた、同じ道を辿ることになるだろう。そしてその時、我々の行為はさらに深い意味を持つことになるに違いない。文化とは、そのようにして育まれていくものなのである。