MAKE FRIENDS

たとえば、誰かと一緒に自転車で走っているとき。
言葉を交わさずとも、呼吸のタイミングがふと合うことがある。
自転車とは不思議な乗り物だ。
それは個人の移動手段でありながら、並走したときにだけ現れる、一時的な共同性を秘めている。
しかもその共同性は、誰かを「仲間」と明確に名指すことなく、身体的なリズムの共存によって、自然と立ち上がってくるものだ。

2025年度は、人と人が自転車に乗ることによって生まれる、緩やかな連帯。あるいは「友達を作る」ということについて、じっくりと考えていきたい。

ルアンルパが提唱した「MAKE FRIENDS」

2022年のドクメンタ15でキュレーターを務めた、インドネシアのアート・コレクティブ「ルアンルパ(ruangrupa)」は、アートの中心的な目的を「Make Friends(友だちを作る)」ことに置いた。
作品の完成度や展示空間のクオリティよりも、アートが生まれる関係性そのものを重視するという姿勢。
それは、制作・運営・鑑賞という三者の境界をゆるやかに溶かしていく試みでもあった。

この理念のもと展開されたドクメンタ15は、「ルンブン(米倉)」という共有と分配の概念を軸に、参加者たちが資源・時間・空間を分かち合う国際的な実験場となった。
そして「アートによって人と人が関係を結び直す」という方向性は、閉鎖的な現代アート界に対する確かな異議申し立てでもあった。

しかし実際のドクメンタ15では、大きな混乱と批判が巻き起こった。
主な原因は、参加団体のひとつが反ユダヤ的とされるビジュアルを展示し、それが国際的な炎上を招いたことにある。さらに、その後の運営側の不手際が事態を一層悪化させた。
つまり「友情」や「対話」といった理念だけでは乗り越えられない、政治的・歴史的な緊張、すなわち歴史認識やアイデンティティをめぐる現実の亀裂に、アートは直面することになった。
そのとき、「Make Friends」は果たして持続可能なのか――という根源的な問いが露わになったのだ。

理念は魅力的だった。だが、それを現実の中でどう構築するのか、方法論が十分に練られていなかった。
それがこの出来事の行き着いた結末だろう。
とはいえ、「Make Friends」という態度そのものが無効化されたわけではない。むしろ、理念と実践の齟齬が可視化された今だからこそ、より具体的な方法を模索することが重要になってくる――僕の目には、そう映っている。

▶︎ ドクメンタ15のテーマ「アートより友だち」は実現したか。非ヨーロッパ的価値観との軋轢を生むドイツの事情(ARTnews Japan)

以上を踏まえて僕は、「Make Friends」の理念をより現実的に実践するための方法のひとつとして、「自転車」を通じた共同身体性に注目している。
つまり、誰かと一緒に自転車で走るという、あまりにも日常的な行為のなかにこそ、ルアンルパ的な「Make Friends」を、より自然に、そして持続的に実現できる余地があるのではないかと、僕は考えている。

世の中の連帯の多くは「友敵理論」に基づいている

そもそも、現代社会における多くの連帯や共同体は、カール・シュミットが『政治的なるものの概念』(1932年)で論じた「友/敵(トモ/テキ)理論」に根ざしている。
シュミットにとって政治的なるものとは、人類における究極の区別=「誰を味方とし、誰を敵と見なすか」という線引きによって立ち上がるものであり、すべての政治的共同体の基礎はこの“敵の設定”にあるとされた。

この思考は、今日のあらゆる集団構造に深く浸透している。
戦争や宗教対立といった極限状況にとどまらず、たとえばサッカーのサポーター文化のような身近な団結、国際政治における陣営構造、あるいはSNS上での炎上や対立の構図にまで、この「友敵」の枠組みは見え隠れしている。

つまり、共通の“敵”を設定することで、内部の結束は強まり、「あいつらにだけは負けたくない」という感情が、「私たち」を団結させる。それはたしかに、強力な連帯の方法だが、“敵を生み出し続けること”によってしか維持できないという危うさを孕んでいる。

シュミット的な政治的空間では、あらゆる関係性が「敵か味方か」の二項で構成され、中間的な出会いや境界線上の関係性が排除されがちだ。
たとえば、サッカーのワールドカップで隣に座った知らないサポーターとハイタッチする瞬間は生まれても、それは「共通の敵を見ている間」だけの友情であり、試合が終われば解体してしまう。宗教的な緊張が高まる場では、いかなる文化的共通項も信頼も、敵味方の境界線の前に無力化されてしまう。

それは、ある意味で最も単純で強力な「連帯の方法」ではあるが、同時にそこには想像力と柔軟性の欠如、そして終わらない分断という影がつきまとう。

自転車は友敵理論を乗り越える、別の連帯を生み出せるのではないか

そうしたシュミット的な「敵を必要とする連帯」に対して、敵をつくらずとも成立する連帯は可能なのか?と考えた時に、思い当たったのが冒頭で紹介した「みんなで自転車に乗ること」だ。

グループライドにおける結集は誰かを敵に設定する必要はなく、身体を共に動かすことそのものが、連帯の起点となる。信号で止まるたびに「今ここに一緒にいる」ことを再確認するような、時間の共在とリズムの共有。隣を走る人がどんな思想を持っているかも知らないけれど、坂道で苦しそうな人に合わせてペースを緩める。そこにあるのは、「敵か味方か」といった線引きではなく、共に息をして、共に動いているという事実そのものだ。

現時点ではやや理論が飛躍しているかもしれない。

しかし、共に自転車に乗ることによる連帯や、ルアンルパが提唱した「Make Friends(友だちを作る)」の理念のあいだには、どこか響き合うものがあるように思う。

敵を設定せずとも生まれる関係。それは、共通の思想や目標すら持たず、ただ「一緒にいる」という時間を共有することで芽生える、微細で、曖昧で、しかし確かに感じ取れる関係性だ。
誰かを否定しないために、誰かを肯定する必要もない。ただ、前を向いてペダルを踏み続ける身体のリズムが、見知らぬ他者と微かに呼応する――その一瞬が、すでに「Make Friends」の種になっているのではないか。

どこまでも続く都市の道を、自転車に乗って他者と並んで走るという行為のなかに、僕は、未来の連帯のかたち――非対立的な共在――の萌芽を見ている。

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