今回は京都の美術館と能楽堂を巡る自転車体験から、自転車駐輪場の考察と、本連載が掲げる「新しい自転車駐輪場Hangar」のビジョンについて述べることにする。さらに言葉を付け足すとすればまず、都市における文化施設の訪問手段として、自転車という選択肢について考える。それに加えて、文化体験における移動手段としての自転車と、それを支える駐輪場のあり方についても提示をしてみよう、ということになる。
京都の市街地は、比較的平坦な地形により、自転車による文化施設巡りに適した環境を有している。また、季節によっては移動する道中であっても、春は桜、秋は紅葉、ことさら神社仏閣に限らずとも、美しい景色を見ることも叶うのが京都の特徴とも言える。
京都市京セラ美術館と、能楽堂観世会館はともに、京都の左京区、岡崎に位置している。岡崎一帯はかつて、1895年開催の内国勧業博覧会の跡地に開かれた地域であり、平安神宮を始め、美術館、図書館、動物園、コンサートホールなど、様々な施設がある。
京都市美術館ではフランスの画家クロード・モネの絵画展がひらかれている。観世会館では、とある400年続く観世流能楽師の家系にとっての、代々続く家名の襲名披露の演能が開かれた。京都の玄関口であるJR京都駅を起点として考えたとき、この2つの場所を巡るには自転車移動が最も適していると考え、このたび実際に自転車で訪れることにしたのである。
まず美術館に向かった。鴨川沿いを北上していけば、30分とかからずに目的地に到着できる。桜の咲く観光シーズン、市内の自動車の走る道路はどこも例に漏れず渋滞だらけである。美術館に着くと、駐輪場は建物の北側に位置している。駐輪場の周囲には植物が植えられた区画があり、屋根のない開放型の屋外駐輪場である。

駐輪するエリアが示されているのみで、駐輪位置や方向を示すような路面のサインなどは見当たらない。車輪や車体を保持するような設備はない。

ところで、この駐輪場のすぐ隣には、シェアサイクルのポートが設置されている。こちらのほうぶは前輪を保持し、駐輪間隔を一定に保つことができる前輪スタンドが設備として備えられていた。なぜ、駐輪場のほうには設置されていないのかは皆目、分からない。

予想するに自転車の前輪スタンドは、シェアサイクルの付属品、つまり自転車の一部として扱われているのだろう。つまりシェアサイクルを設置すれば、前輪スタンドもそこにあるべきなのだ。しかし、美術館駐輪場にとっては地面の提供が第一義であり、設備はそれとは別だということなのだろう。どこからどこまでが駐輪場なのか。この境界の曖昧さは、駐輪場を考える上での重要な考察対象となるだろう。
モネが描いた、水面に反映する柳や睡蓮を鑑賞した美術館を後にし、観世会館への道中では、琵琶湖疏水沿いで満開の桜並木を通り、春の息吹を感じながらのサイクリングとなった。自動車移動では味わえない、風や光の移ろいを感じる移動時間は、モネの絵画体験を消化し、次の能楽鑑賞への心の準備を整える「間(ま)」として機能していたかもしれない。だとするならば、この移動自体が文化体験の一部となっているのだろう。
観世会館に到着すると、駐輪スペースは美術館のものよりもずっと簡素なものだった。建物の通路脇に設けられた駐輪エリアであり、バイク置き場と共用になっている。しかし、その簡素さが逆に能楽という古典芸能の本質的な「引き算」の美学と調和しているのかもしれない。むろん、これは京都特有の言い回しと受け取ってもらっても構わない。

襲名披露の演能は、400年の歴史を背負った重厚な時間の流れを感じさせるものだった。あえて一言であらわすならば、極めて伝統に忠実な王道的演目構成、とでも言うことになるだろうか。目出度い雰囲気を十分に醸成する演目が並べられ、隙も抜かりもない。これは能楽にとって大変重要である。
能楽を見に来る客層には女性も多く、またその少なくない人たちが着物の和装で来場している。このことから、能楽と自転車は服装的なミスマッチが考えられる。
駐輪場と服装、ここにも関係性を考えることができるだろう。自転車にも乗りやすく、能楽堂の客席にも似つかわしい服装を想定できれば、自転車で能楽を見に行きやすくなるということに繋がるかもしれない。催しがどのようなファッションを想定するか、これもまた駐輪場のデザインに関係してくることも有りうる。土地や設備に加えて、人や人が着る服装、こういった事柄でも駐輪場のあり様には重要なことである。
美術館でのモネの視覚的体験とは全く異なる、時間芸術としての能楽を同日に体験でき、こうした考察につなげることができたことは、自転車という移動手段があってこそ実現したものである。
駐輪場という空間は、単なる機能的施設ではなく、「Hangar(格納庫)」という概念で捉え直すことができる。その考え方は本プロジェクトの主眼である。Hangarとは、文化体験のための乗り物(この場合は自転車)を一時的に預かり、またその体験の終了後に返却する場所である。しかし、より深い意味では、Hangarは文化体験そのものを形作るプロセスの一部でもある。
例えば、自転車に関する展示会が催されるならば、その内容や対象者に応じた駐輪場のデザインを考えること自体が、文化プログラムの構想段階から実施までの一連の「Hangar」なのである。アート展示があるならば、駐輪場の機能やデザインをはじめ、その運用方法にまで気を配ることで、どのような人たちに来てほしいか、というメッセージを発することにもなる。
また出展者に対して、自転車を使って作品の運び込みが行えるかどうか、設営に際して自転車が移動手段になり得るかどうか、それを検討する上でも展示や設営の仕様を判断する材料ともなる。作る側にとっても、見に行く側にとっても、それは等しく「港」のような存在であり、「空港」のような空間であり、自転車にとっての「Hangar」となる、それがHangarの改めてのステートメントである。
今回のような自転車による文化施設巡りの経験は、仮設型や屋外型の文化体験にも応用できる可能性を示している。例えば、京都であれば鴨川河原などのような野外で行われるイベントや、寺の境内での展示など、一時的な文化イベントにおいても、自転車アクセスを前提とした動線計画や駐輪場デザインがあり得るだろう。またそれは、京都という土地に限定されることもないだろう。
繰り返しのようになるが、その催し毎の対象者や分野、事前に告知する周辺情報などに応じて、適した駐輪場をデザインするという視点は重要だ。若年層向けのポップカルチャーイベントであれば、SNS映えするデザイン性の高い駐輪場や、シェアサイクルとの連携も効果的だろうし、一方、伝統文化に関するイベントでは、その場所の歴史や風情を損なわない控えめながらも機能的な駐輪スペースが求められる、といったような具合にである。
Hangarが文化として存在するためには、一回限りのイベントではなく、繰り返しの執り行いが必要である。例えば、文化イベントで提供できる駐輪場として少しづつアップデートを重ね、来場者の自転車利用パターンの分析と反映といった反復的な取り組みがあれば、駐輪場を単なる施設から文化的要素として認めてもらえるのではないか。
この反復性は、文化そのものの本質ともなる。能楽が決まった「型」の繰り返しによって何世紀にもわたり洗練されてきたように、文化施設における駐輪場のあり方も、使用—改善—再使用というサイクルの中で進化していく。モネが同じモチーフを異なる時間や光の下で繰り返し描いたように、駐輪場という文化装置も、異なる文脈の中で繰り返し考察され、実践されることで、その本質的な価値が見えてくるのではなかろうか。

文化体験の質を高めるためには、作品や公演そのものだけでなく、その前後のプロセス、特に移動や搬入や搬出、待機の場所についても注意を払えてこそ、文化的余裕が生まれるというものである。駐輪場「Hangar」は、文化と日常を繋ぐ重要な接点として、より創造的にデザインされるべき空間なのだ。