前回の記事では、インドネシアのアート・コレクティブ、ルアンルパが掲げた「Make Friends」という理念を起点に、政治哲学者カール・シュミットが唱えた「友敵理論」と対比させながら、ひとつの問いを立てた。
対立を前提とせず、敵を必要とせずに、人と人は本当に連帯できるのか?
その仮説のもとに注目したのが、グループで自転車に乗るという行為だった。
ペダルを漕ぎ、風を切り、誰かと呼吸を合わせながら並走する。そのなかには、単なる移動手段を超えた、もっと根源的な喜びと結びつきの感覚が潜んでいるのではないかと考えた。
ペースを探り、リズムを合わせ、休憩を挟みながら進んでいく。そこには、速さや目的地を競うのではなく、一緒に走ること自体を楽しむ空気がある。心地よいスピードを互いに探り合い、無意識に間合いを調整し、必要ならば誰かに合わせてペースを緩める。そうした小さな思いやりの積み重ねが、いつしか一つの流れをつくり出す。
友人と集まって自転車に乗り、そうした高揚感を味わう度に、なぜか必ず祭りの記憶にリンクする。
神輿の担ぎ手たちが声を掛け合い、足並みを揃え、肩で支えながら前へ進む。そこにあるのは、誰かを打ち負かすための競争ではなく、身体と身体が自然にリズムを合わせ、重みと高揚を共有しながら進む共同作業だ。
そして、グループライドもまた、仲間と計画する週末の小さな旅や、遠くの景色を目指して走る一体感のなかで、意図せずとも小さな祭りのような空気を生み出していて、原初的な「一緒に在る」歓びが自然と芽生えてくる。
神輿を担ぐときの、あの祝祭的な営みはグループライドと近しいのかもしれない。
本記事では、この感覚をさらに掘り下げていきたい。
神輿という祝祭的な共同身体を手がかりに、自転車グループライドに内在する構造、身体感覚、そして連帯のあり方を探る。
そして、「みんなで走ること」がいかにして自然発生的な友情や共感を生み出す祝祭へと育ちうるか、その可能性について考察していく。
移動を超える体験としてのグループライド
自転車は、ただ移動するための道具にとどまらない。
特に仲間と一緒にペダルを踏み出した瞬間から、そこには別種の体験が立ち上がる。
グループライドでは、速さを競うわけではないし、目的地に最速で到達することがゴールでもない。
その代わりにあるのは、ペダルを漕ぐリズムを自然と揃えていく過程、風を切る音を共有しながら並走する心地よさ、そして休憩のタイミングさえも暗黙に合わせていく、言葉にしがたい一体感だ。
最初はぎこちない呼吸だった仲間たちが、数キロも走るうちに、無理なくひとつの流れになっていく。
誰かがスピードを緩めれば、それに合わせて全体も緩やかに息をつく。
また、上り坂に差しかかれば、無言のうちに列の密度が変わり、互いを励ますようにリズムが整えられていく。
この感覚は、単なる「移動の共有」とは違う。
「隣にいる」ということ、「同じ風を受ける」ということ、「同じ時間にペダルを回す」ということなど、些細な動作の積み重ねによって、互いの存在を無理なく受け止め、調和しようとする過程そのものが、生きた連帯を生み出しているのだと思う。それは、言葉や思想を超えた、身体による共感のはじまりと言い換えても良いかもしれない。
そうした連なりは、やがてひとつの生命体のようなまとまりを形成していく。こうした「リズムを通じた連帯」こそが、敵を前提としない友情、分断を必要としない共同性の、最も素朴で確かな形なのではないかと考える。
僕たちはペダルを踏みながら、ただ前へ進んでいるのではない。
僕たちは、互いの存在にささやかに同調しながら、目に見えない小さな祝祭を、ひとつひとつ刻んでいるのだ。
神輿に見る「身体の同期」と祝祭の構造
この、身体を通じて自然と生まれる連帯感は、祭りで神輿を担ぐ体験にも似ている。
神輿の担ぎ手たちは、事前に細かい打ち合わせを重ねるわけではなく、現場ではただ、声を掛け合い、足並みを揃え、肩にずっしりと食い込む重みを互いに感じながら進み続ける。一人ひとりが、自分の力で支えながら、同時に周囲の仲間の動きや息づかいを敏感に感じ取り、無意識のうちに調整しあっている。
神輿を運ぶ行為は、単なる労働でも競技でもない身体を同期させて前へ進む純粋な歓びだ。
誰かが重さに耐えきれず傾けば、それを察知した周囲が瞬時にバランスを取り直す。力が強いとか弱いとかいう問題ではなく、全体がひとつの有機体のように反応する。
それらによって生まれる一体感、無数の身体がひとつになって生きているという感覚こそが、神輿祭りの本質だろう。
グループライドと神輿に共通する「非対立的な連帯」
グループライドと神輿を担ぐことは、一見まったく異なるように見える営みだが、その本質において深く共通していると思う。
両者共に運動を通して、自然と呼吸を合わせ、スピードを合わせ、体験を分かち合う。言葉で合図を交わすよりも先に、身体が微細なシグナルを感知し、応答していく。
そこには、思想の一致もゴールの共有も必要なく、ただ「一緒にリズムを刻むこと」だけがある。
身体のリズムを合わせるだけで、深い共感と非対立的な連帯が立ち上がっていく。
これが、シュミットの「友敵理論」が前提とするような、「敵を設定することでのみ成立する連帯」とは、まったく異なるかたちのつながりだ。
誰かに勝たなくても、競わなくても、運動を共有することによって自然に生まれる連帯。グループライドも神輿も、その可能性を身体レベルで示している。
しかもそれは、特別な理念や努力によるものではない。
祝祭がもたらす友情の萌芽——「Make Friends」の身体
ルアンルパが掲げた「Make Friends」は、対立や境界を乗り越えて新しい関係を築く試みだった。
しかし、現実には政治的緊張や歴史的対立の壁に直面し、理念だけでは超えられない課題も露呈した。
けれど、自転車で並走すること、神輿を担ぐこと——こうした小さな身体の連帯の中には、理念を超えたもっと自然な友情の萌芽が息づいている。
僕はグループライドを祝祭と捉え、ただ「一緒にいること」そのものを祝いたい。
ただペダルを漕ぎ、風を切り、リズムを共有する。そのささやかな行為こそが、分断に抗う新しい連帯の種になるのかもしれない。
「みんなで走ること」は、単なる移動ではない。祭りと一緒だ!
それは、未来の連帯のプロトタイプで、たとえ小さな規模であっても、こうした祝祭が積み重なることで、少しずつ社会の空気を変えていくことができるはずだ。