自転車に乗るようになり、思いがけず克服したことがある。ライドをしながら撮影されることに対する恐怖心だ。画像や映像が拡散され、容易に特定される現在、無防備な状態を晒すなんてもってのほかと思うむきもあるだろう。女性であればなおさらかもしれない。にもかかわらず、映像との付き合い方を考え直すきっかけとなったのが、赤松正行の《Vanishing Ride/ 消失するライド》(2018-2019)であった。ともすれば不均衡になりがちな撮影する側/される側という関係が限りなく薄れるのは、一緒にライドをしているからだ。数人のグループで同じ道を走りながらも個人の時間を楽しむ感覚は、私にとって共同体の理想を考えるメタファーとなっている。
自転車に乗る時間を過ごし、メディア技術がもたらす公共圏について考えるようになって度々思い返すのは、藤幡正樹の《Voices of Aliveness》(2012)だ。このプロジェクトでは、参加者がGPSレコーダーとビデオカメラが搭載された自転車に乗って「シャウティング・サーキット」と名づけられた道を走るのだが、各々の軌跡や叫び声の痕跡がタイムラインに沿って弧を描き、天に向かって延びる集合体として表示される。藤幡自身が「メタ・モニュメント」というコンセプトのもとで語るこの作品は、言葉にならない集合的な記憶に対する想像力をかき立てる。録音された音声は作曲家の清水靖晃によってアレンジされており、音響詩を思わせるところもある。
ジェンダーと自転車という視点で《Voices of Aliveness》に興味をもつのは、声の問題だ。声は身体やプライヴェートな記憶と結びつきやすい。知人であれば特定できるし、たとえ個人を特定できなくても、声の持ち主の性別や年齢、性格などを想像させる。事実、”Voices of Aliveness” first edition May 2012を聴いた途端、私の脳裏には藤幡の姿が浮かぶ。少し照れたような声に混じって朗々と歌うような声や言葉にならない叫びが折り重なるのを聞きながら、このプロジェクトにおける作家と参加者の関係を想像せずにはいられない。この作品から感じられるのは確かな信頼関係であり、ジェンダーバイアスにとらわれない個々の参加者の実存なのだ。
共同体の理想を描くこと自体が口幅ったく思われるのが現在でもあるだろう。それは重々承知の上だが、考えずにはいられない。硬直した現実に風穴をあけるのが作品であり、ライドなのだ。