ある日、自転車に乗って交差点の信号待ちをしていたところ、少し離れた場所からこちらを見ている男性が軽く会釈のようなしぐさをしたかと思うと、ゆっくりと私のほうへ向かって歩み寄ってきた。
「時々見かけるんですけどね、このラジアル組みにはどういう意味があるんですか?」
男性は私の自転車の前輪のほうを手でやんわりと指しながら、小脇には風呂敷に包まれた荷物を抱えながら、少し照れたような様子で話しかけてきた。ふむ、どういう意味があるだろうかと私は考えた。
ラジアルという言葉には「放射状の」や「中心から外へ」というような意味があり、ラジアル組みというのは自転車の車輪のスポークの組み方の種類のことを指している。
この組み方では外周部のリムが接地している箇所に向かって、真っすぐにスポークが伸びているので、車輪の中心にあるハブを軸として放射線上にスポークが並んでいる、シンプルなシルエットとなっている。
ラジアル組みのホイールの対になる組み方としては、タンジェント組み、と言われる組み方がある。こちらはスポークがハブからリムに向かって真っすぐではなく、角度をつけて接続されている。そしてスポーク同士はクロスして編まれるような形状になっている。おそらく普段目にする自転車のホイールは、大多数がこちらの組み方になっているだろう。
さて、件の男性の質問を思い出してみると、ラジアル組みにはどういう意味があるのか、ということだった。一般的に多くの自転車にはタンジェント組みのホイールが使われており、ラジアル組みのホイールはそれほど見かけることはない。
ラジアル組みのホイールが使われる代表的な場面とは、「ロードバイクの前輪」である。スポーツや競技、長距離ライドに適したロードバイクに使われているということは、また好き者のための蘊蓄が含まれているに違いない、と、この男性は考えたのかもしれない。読者もそうお思いであろう。
確かにラジアル組みのホイールは、タンジェント組みのホイールに比べての長所といえるものがある。たとえばスポークの長さだ。タンジェント組みに使うスポークにくらべて、ラジアル組みのホイールはスポークの長さが短くなる。
ラジアル組みは中心から円周までの最短距離がスポークの長さになるのに対して、タンジェント組みのスポークには確度がついていてハブからリムまでの長さが少し増える。長さが増えるということは重さも増える。スポーク一本あたりの重さかけるスポークの数、たとえば32本分ならスポークの増加重量×32がラジアル組みであれば浮く、というメリットがある。
その一方で、ラジアル組みの欠点は剛性に劣っていることで、駆動輪である後輪に用いるには剛性が不足してしまう。だからロードバイクのような軽量を求める自転車の前輪にのみ用いられることが多い。
そう考えると、軽量化するという意味を持たせることができるし、また、前輪は走行時に空気抵抗を受けるが、スポークがクロスしないラジアル組みは風の流れを妨げにくくなる、という意味も備わってくるかもしれない。
ラジアル組みというのは普段見かけることがすくない、珍しい形状なのだろうか。私の回答を待っている男性の顔は興味を帯びて楽しそうな笑顔に見えてくる。技術のトレンドの最先端を取り入れている、そのような蘊蓄を期待されているような緊張感も感じてくる。
車輪に関する考古学的な証拠は紀元前3400年ごろ以降からは多く見つかっている。スポークの歴史もそれなりに古い。
古代ローマなどでは軍事を目的とした戦車(チャリオット)がスポーク式の車輪を持つようになったと言われている。戦車に求められるのは速さであったり、より遠くまで偵察ができる機動力であり、そのような要請からスポークの仕組みが発展していったと考えられている。そのころのスポークの組み方は、もともとはラジアル組みであったと考えらえている。
考古学資料として出土する車輪以外にも、美術の中に現れる車輪もある。もちろんそれらはモチーフとしての車輪であるのだが、当時の実際の形状を表象していたと考えることもできるだろう。
中西麻一子「カンガンハリの「初転法輪」図について」によれば、仏教の祖であるブッダを題材とした仏教美術には「初転法輪」と呼ばれ、説法を行ったことを物語る仏伝の一場面がある。
「初転法輪」図の図像表現を解明するためには、説法の内容ではなく、その前後に物語られる情景描写を文献資料中に探ることがより重要になる。法輪を回転させるという記述を考察していくと、「法輪を回転させる」というフレーズとその図像表現が初転法輪伝説の成立より以前、もしくは同時代に平行して存在していたことが示唆されている。
車輪が持つ神話的なイメージは、祭礼・権力・仏法を通じてそれを広く世の中に広め浸透させていくという役割を担っているとも考えられるが、その場面に使われている法輪(車輪)は、ラジアル組みである。
車輪技術を歴史的に広く広めてきた期間、車輪はラジアル組みであった可能性が高い。ラジアル組みは車輪の歴史の大部分を担っている。
今のような金属の細いワイヤー素材ではなく、木の素材を使って車輪を組んでいたころ、スポークの仕組みをつかったホイールで採用されていたのはラジアル組みであった。木製スポークのような太さがあればそれ自体に剛性があるので、わざわざスポーク同士をクロスさせる必要は生じなかったためだ。
金属でワイヤーをスポークの素材としてホイールが作られるのは19世紀からである。産業革命によって金属加工技術が向上したことが背景に挙げられるだろう。歴史的に見ればタンジェント組みのほうがごく最近現れた形状ということになる。
交差点の歩行者信号が点滅し始めた。ホイールの組み方一つにこれだけの歴史と背景がある中で、自分はどういう答えをして発進しようかと思ったが、結果的に「こっちのほうが、かっこいいからじゃないですかね」と応えるのが私には精一杯だった。
男性は、ふむ、という顔をして「なるほど、ありがとうございます」と残して仕事に戻っていったようだった。お互いもう少し時間に余裕のある時に出会いたかったと考えていたかもしれない。