出かけた先で眠るのが好きだ。もっと正確には、目覚めることが好きだ。絡み合い継ぎ足され続いてきた意識と思考の綱を、眠りによって断ち切り再スタートする。世界が新鮮さを取り戻し、感覚のチャンネルがいっせいに開かれる。あたかもそこで生まれ直したかのように、場所との関わりが一から始まる。このプロセスと自転車はとても相性が良いように思う。
夏のある日、八ヶ岳の裾野の一端をなす「七里岩ライン」を韮崎から北西に走っていて雨雲にぶつかった。まだ昼前だったろうか。ちょうどよく雨宿りできるベンチがあったので、降られる前に足を止め身体を横たえた。眠りに落ちるまでの時間も良いものだ。屋根と路面を叩く雨の音、水をかぶったアスファルトの匂い、たまに吹き込んで顔にかかる飛沫、目を閉じていても分かる雲の動き。
起き抜けのクリアな状態で走り始められる仮眠は素晴らしい。道中で泊まって迎える朝もまた格別だが、新鮮な世界に長く触れるためには、目覚めてしばらくは人の言葉を見聞きせず、自分の頭の中の言葉もなるべく形をなさぬままに留めておきたい。宿ならまず散歩に出られるところが望ましい。人より早く起きるのが苦手な筆者には静かな場所でのソロキャンプが最も向いている。
道中での目覚めは、実際に眠った後にだけ起こるわけでもない。移動という行為自体ののランダムさと、車輪の力による行動範囲の広さ、そして生身であること。これらのおかげで、自転車(やモーターサイクル)に乗っていると、意識がリセットされるような瞬間がふいにやってくる。眺望や光の変化、地形のフロウ、鳥との並走、打ち寄せる波。そのエッジは流れとタイミングの中にあり、記録は難しい。
「目覚め」によって場所とダイレクトに出遭う感覚は、味わってしまうと忘れられないものだ。自転車遊びが好きな人の多くは各々それを経験しているはずだが、個々の目覚めの瞬間は眠りと同様に極めてパーソナルで、グループで行動していても厳密な意味での共有はたぶん不可能だ。でも、それぞれのポエティックで孤独な瞬間の蓄積があるからこそ、自分と仲間は共鳴し合えているようにも思う。
これを書いているうちに空がゴロゴロ鳴って雨がざばざば降った。でたらめに暑かったのが少しましになり、今は青空が見えて蝉たちが鳴いている。紛れもない夏。次はどこで眠り、目を覚まそう。早朝に近くを流して木蔭でウトウトか、涼しい渓流へ自走してキャンプか。皆様もお元気で、良い夏を。