自転車漫画「のりりん」の第1話では、自動車が趣味である主人公が、自転車に乗っている人が嫌いである理由を告白している。その理由のいくつかをセリフから抜き出すと
「スポーツだか移動手段だかはっきりしない」
「非日常を無理やり日常の中に持ち込んでる」
「妄信的で自分たちこそ最高みたいな感じ」
「興味のない人間にも強引に勧めようとする」
ということであり、故に自転車には乗らないと強く主張していた。そのあと結果的に、主人公は自転車を所有して自転車に乗ることになるのだが、それはあくまで「事情によって自動車に乗れなくなったため、仕方なく自転車の生活を選択した」という、外圧に屈した形となっている。
自転車(ロードレーサー)に乗り始めた主人公は、自転車勝負、ヒルクライム、サーキットイベントなど、徐々に嫌いだったはずの自転車に乗っている人になっていく。そして最終11巻の最終話前、第88話では主人公のモノローグのような形で「ロードレーサーで走ること」が語られる。
近距離の移動だけが目的の自転車と
ロード ー 競技用自転車
その一番の違いは
快感だ
個人個人の早い遅いにかかわらず
等しく与えられるごほうび
それは普通に流しているだけでも十分に味わうことが出来る
もちろん速度を上げれば上げた分だけそれに見合う快感をもたらしてくれる
作者の鬼頭莫宏はロード乗りであり、何台ものロードレーサーを所有する愛好家でもある。この作者が描く主人公にとっての自転車に乗る人のことが嫌いな理由が、自転車に乗ることによって徐々に嫌いではなくなっていく、という単純な話には描かれていない。描かれているのは自転車に乗ることについて「ああ、なんて楽しい」という快感を得た、ということにある。理由はどうでも良くなったのだ。(※もちろん物語としては理由が解消された経緯はあるが、詳しくはここでは割愛)
ロードレーサーに乗ることは、自転車嫌いがアップデートされて自転車好きへと変わっていく効果をもっているというよりも、新たな自転車家を「発見」していく過程なのだ。その際、嫌いなものは嫌いなままでもよいのだ。
ロードレーサーは舗装路の道を、早く、遠くまで走ることに特化した道具である。現代においてロードレーサーが走る舗装路の殆どは、自動車による走行を目的としたモータリゼーションの恩恵である、という「自動車側」の意見も本作では述べられている。自動車は敵である、とか、新たな自転車の時代の到来を妨げる存在である、と決めつけているのでもない。
年齢を重ねて大人になることで、自転車がより一層快感となっていくのは、自動車に乗ったり運転免許を取得して自分で自動車を運転する体験を経ることとも関係があるかもしれない。もしそうだとすれば、自動車の世界と自転車の世界は、相反するものとして存在しているのではないことになる。
自転車は単純でシンプルな乗り物だ。だが、それを言葉で言い表すのはシンプルではない。乗ってみればわかる、そのような単純な方法があるにもかかわらず、様々な理由によって人々は自転車を選択しない。そして、「のりりん」の主人公が抱いていた自転車が嫌いな理由は、おおよそ間違ってはいないのだ。
だから、自転車家は自分の「庭」を見に来るように誘う。自分が庭としているロードサイドの四季折々を見に来たらよい、と友人に提案するのである。自転車に乗ることでそれまで知らなかった風景を目の当たりにすることを、風景を教えるのではなく風景を発見する方法へと誘うのである。こういう人を見かけたら自転車家だ。好き嫌いをとうに超えている。
筆者を自転車の道へと誘った人物が、ロードで早く走るということについて語ったことがある。その人物は小さな子供が生まれたことで育児のある生活に合わせて早朝に起きて自転車に乗る習慣ができた。次第に子供は大きくなり、日曜日の朝に放送されているTVアニメ「おジャ魔女どれみ」を見るようになった。すると「おジャ魔女どれみ」が面白いので、自分も見たくなったという。
そのため、ロードで朝早く走りに行った時にも「おジャ魔女どれみ」の放送が始まる8時ごろまでには帰宅しようと、これまで走っていた距離をスピードを上げることで時間が短縮されるようになった、という。これがその人物が、早く、長い距離を、ロードで走ることになった経緯である。
筆者はこの他にも、自転車の快感を見つける方法を教えるでもなく伝えるでもなく、ただただ語りと走りの中で誘ってきた自転車家を何人となく見かけてきた。それはクリティカル・サイクリング宣言の
平衡感覚を通じて、機能、習慣、共有を瞬時に得る
このことが行われている現場である、と私はいま思い起こすことができる。これが気にかかっていたことの本体だ。立ち止まっている人に自転車の平衡感覚というのは生じにくい。だから、自転車家の民族誌「自転車エスノグラフィ」は道路の上が現場であり、現場で得ることができる方法論でもあり、新たな発見を導く扉でもある。
この2020年は世界が新型コロナウイルスの有る世界への扉をひらいた時でもある。自転車家にとってもそこは見たことのない風景である。その風景の中で、自転車家が快楽のために自転車で野外を走ることは受け入れられるのだろうか。今はどんな結論も出すことのできない、過程の中にいる。
それでもやはり、ロードバイクを走らせることで遠くへ速くたどりつく、そのための頑張りがあり、そこから学ぶための現場を見つけ出すことは、自転車エスノグラフィを実践していくことだと考えている。楽しみ、シンプルであり続け、現場でペダルを回し続ければ、発見がある。そのアップデートのサイクルは止まることがない。
「クリティカル・サイクリング宣言」のエスノロジーに「現場」を加え、アップデートしていく取り組み、それが「新型グループ•ライド」となる。それを通して、この漫画の一コマにある「不思議な感じ」「妙な一体感」のかたちを探っていくことになるだろう。
(自転車家12ヶ月 終)