2月
自転車家は寒がりだ。正しく言い直すならば、自転車家は寒くて嫌だと思うことを素直に嫌だと認めて、イヤだと言いがちだ。自転車家には寒波に耐える強靭な肉体とか精神が備わっているとは限らない。
1年の周期の中では、この時期はとても寒い。このような季節に自転車に乗ることは、寒い風を全面的に引き受けていなくてはならない。
ロードレーサーに乗るライディングポジションを頭に思い浮かべて見ればわかることだが、自転車を漕いでいる時には空気抵抗を減らすために、なるべく体の特定のポイントだけを突き出して、風を切って走れるようになっている。
だから当然のように、突き出したところだけグングン冷たくなってくるのだ。具体的には手の指先、そして足の爪先、そして顔、だ。体の末端部が一点集中的に冷たい風によって強制冷却され続ける。
ヨーロッパの「冬が寒そうな国」と言われて思い浮かぶ国の一つ、スイスに「ASSOS」という高級サイクリングアパレルがある。性能も耐久性も高く、スイスというイメージに違わない洗練されたデザインを誇るブランドでもある。そのASSOSをして「カニ」や「バルタン星人」と呼ばれてしまう、見た目を度外視し、ただ寒さを防ぐためだけのグローブを作ってしまうぐらい、とにかく指は冷たい。(なお、現在は生産されていない様子)
寒い時期に自転車に乗るのは寒いことを引き受けている。どれだけ防寒装備にお金を費やしたとしても、どれだけヘンテコな姿になっていても、だ。自転車家は寒さには弱いのだが、自己責任にだけは強いのだ。
こんな話をきいた。“やりたい事に理由はなく、やりたくない事には山ほど理由がある” 天候と気温は“やりたくない理由”のうちでも最も貴いクラスに入れられるだろう。朝目覚めたら雨音が聞こえて安堵した、という経験をしたことのある自転車家も多い。雨で濡れた路面は危険が増すので、今朝は走らないほうがいい、という理由が天によってもたらされたのだ。
ところが一方で、やりたくない事にわざわざお金を支払うこともする、それが自転車家だ。たとえばレースやサイクルイベントにエントリーする。こうすると、寒くて走りたくないのに練習せざるを得なくなるのだ。
お金を支払ってヒルクライムに挑戦したり、お金を支払って何時間もサーキットを周回したり、そのような少なくない苦痛を伴う自転車イベントは枚挙にいとまが無い。けれど、それらを「イベント」と呼ぶのは少々趣向が違っているようにも思う。ここでは、自転車に乗る貴き者の蕩尽の場、祝祭の現場とでも呼んでおきたい。
祝祭の場であっても、祝祭の場所であるからこそ、その現場で自転車に乗る行為は自然と共にある。祝祭のレースコースとして走る道路も日常では自動車を含めた交通移動のインフラであり、そのインフラそのものに変化はないからだ。雨は降るし、風は吹く。山中を走っていれば道路を猿や鹿やオオサンショウウオが横断していることだってある。
祝祭の現場はいつだって現在進行形だ。まだ記憶にも新しい2019年の第106回ツール・ド・フランス第19ステージのレース中に出来事があった。ゴールまで残り22km、イズラン峠をレーストップが通過したところで、ふもとの荒天と土砂崩れによってレースの続行が不可能だと主催者によって判断された。ここで下された決定により、イズラン峠の通過タイムをもってこのステージは終了。ステージ優勝者はいない、ということになった。このステージの結果を受けて、黄色のリーダージャージは、フランスの選手・アラフィリップからコロンビアの選手・ベルナルへとその所有権が移り、結果的にこのときリーダージャージを手に入れたベルナルが、ゴール地パリで初のコロンビア出身選手による総合優勝を遂げることとなった。
世界最高峰の自転車レースも、市井の自転車家が克己心のためにエントリーするサイクリングイベントも、キャンセルだと言われればキャンセルなのだ。何も大雨や台風に限ったことではない。地震であっても疫病であっても、それは祝祭の現場を取り巻くインフラの一部なのだから。
キャンセルとなったレースにやり直しはないし、自転車家が支払った参加料は返ってこない。これは一つの文化だ。もちろん法律文のような参加規約書をしっかりと見れば「参加料は返金いたしません」と書いてあるだろう。けれど、それは読むまでもない。自転車家ならだいたいこう思うだろう。よかった、走らなくて済むんだ、苦しい思いをしなくて済むんだ、金で済むなら安いものだ、と。
岐阜県関ヶ原町をスタート地点として伊吹山ドライブウェイをコースとしたヒルクライムレースが毎年春頃に開催されている。この大会は市民サイクルレーサーにもよく親しまれているが、しばしば距離短縮が行われる。理由は「雪が溶けていないから」である。春先のため、冬の間に積もった山頂の雪がまだ残っており結果として距離短縮ということになる。もちろん15kmが10kmに短縮されたからといって、参加費の3分の1が返金されるなどということは、ない。
主催者が天候や気象を理由として止めてくれる時もある。そうではないライドの場合、天候が止める理由にならない時もある。自転車家にとっては自転車に乗る全ての機会が現場だからだ。「こういう時は、こうするのが普通だ」という意味での「文化」に還元されない自転車の現場もある。行きたい、という気持ちが勝ってしまったとき、そこに悲痛さはない。全員が笑っている。
土砂降りの雨の中、走り続けていればいずれこの雨は上がるのではないか、という期待を胸に秘めペダルを回し続ける道程。仲間の自転車家と共に走り、雨の中のパンク修理という最悪なアクシンデントを乗り越えて、到着した雨上がりの目的地にて、夕焼けの海に没む太陽を見届ける、そういうライドの終わり方もある。
ある雨の朝、京都の沓掛を出立して亀岡に至り、デカンショ街道をずぶ濡れになりながら丹波篠山を経て播磨国を横断し姫路にたどり着く。自転車をフェリーに積み込んで小豆島へ渡った時、空は抜けるように青かった。
しかしながら、そのようなことが起こる保証はどこにもない。保証はないが、その現場の判断に責任を負って参加したこのレースの勝者は彼らだけだ。それを判定できる審判はこの世のどこにもいない。
なんであれ祝祭は、どんな不測の事態があっても笑っていられる間柄であれば、それがどのようなプロセスであっても笑っていられる。そうでないなと思うならば、天気や自然を理由にしてやめてしまえばいい。自然は別に怒ったりしない。そこにあるだけだ。どちらにしたって雨で体が冷えたり、脚が痛くなったり、お金が飛んでいくのは、自転車家のほうだ。
自転車家は濡れるのはイヤだし、寒いのもイヤだ。暑すぎるのもイヤだし、日射しが強すぎるのもイヤだ。これだけ自然や天候を気にしているのだから、本当に自然と共に走るのが大スキなのだ。それだけで、祝祭みたいなものだ。祝祭に飲むビールはとても美味いが、この季節に限っては日本酒が良い。