自転車に「乗る」ためのレッスン 第8回 意外性と因果性

夕闇迫る坂道を全力疾走する足立麻子(を演じるのは小泉今日子)。背景には、黄色いゴミ袋がやたらと目立つ。次のカットで、全力疾走のまま道を右折しようと膨らんだところを(といっても少々わざとらしい)、突如現れた自転車から身を逸らし、「キャー」っと嬌声を上げた足立麻子はゴミ袋の山に突っ込む。突っ伏して、娘の名前をつぶやき、もう一度立ち上がる。

 『トウキョウソナタ』(2008年)以来4年ぶりに撮影した『贖罪』(2012年)で、小泉今日子をゴミ袋に突っ込ませた黒沢清のこのシーン、僕はついつい何度も観て爆笑してしまう。そのあざとさにというべきか、いや、黒沢清のクリシェにというべきか。ゴミ袋や段ボールが不自然に配置されていると「あ、来るな」ということで、段ボールに車が突っ込んだり、ゴミ袋で喧嘩が始まる。大惨事になるようなことはない。映像という時の継起の先へ先へと進む欲望は、観る者の因果を予測する気持ちと、それを実現していく運動の関係性による、あらすじとも違う、独特の構成を表現としていく。牽強付会に言ってみれば、こういた映像表現を駆動する仕組みそれ自体が、自転車という自らの運動と流れゆく風景との相性に重なる気もする。

いや、そんなことをわざわざ考えるまでも無く、『贖罪』におけるこのシーンはすごい。ゴミ袋を背景に疾走する小泉今日子の登場に、僕はすでに笑いはじめてしまう。あらすじとは異なる、映像の時間を司る文法に基づく映像の時間には、まさかまさかまさかと思いつつの因果関係で、自転車をよけて勢いあまって主人公がゴミ袋に突っ込む。このあざとさを映像的と言って喜んでいるわけでもないのだが、小泉今日子をゴミ袋に突っ込ませる意外性と因果性を繋いでしまう、不意に説得力がある自転車の登場に、僕は感服してしまう。これは黒沢清がこの時期までに培ってしまった、定型の語りによるものなのだろうか? この連載でもしばしば登場する黒沢清の自転車だが、その微妙な表象にもかかわらず、映像表現の中でキーとなる説得力を持っている気がする。

映像の因果を司る自転車という直感は、自転車を運転し、風景を選択するという運動イメージとして、僕のなかで重なっているようだ。

2 comments

  1. 映画を見ていないのですが、自転車に乗っていた人のその後の振る舞いはどうだったのでしょうか?

  2. これがひどい話で、そのまま走り去って、物語になんら関係しないのです。小泉今日子をゴミ袋に突っ込まさせるだけなのです・・・その役割に自転車が使われてしまうのもねぇー、という。

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