自転車に「乗る」ためのレッスン 第5回 はじめて二人は傾斜に気づいた

「市場のそばに貸自転車がある。君が眼をさましたら、二台借りて乗りに行こうじゃないか。ブーシフのまわりは、だいたい平地なんだ」

なぜか理由はわからなかったが、この提案は何となく彼女の心をひいた。

「すてきね!」と彼女は言った(後略)

ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』

 実存的な頽廃を主題とした寓話。寓話と言って良いのか? 北アフリカの砂漠、この虚像の空がポール・ボウルズの小説「シェルタリング・スカイ」(1949年)の舞台だ。「天蓋の空」(とか「極地の空」とも翻訳される)は、主人公の安らぎを庇護し、苦しみを埋葬する。断崖の上で、虚像の空についてカップルが語らう。この場面でふたりは、「これほどしばしば同じ反応、同じ感情を示すにもかかわらず、一度も同じ結論に達したことがないことに気づ」く。原作でも映画でも、この場面でのささやかなすれ違いは絶対的な出来事として強調される。にもかかわらず、読めども展開を感じさせない、無時間的な頽廃の描写が続き、個人的にはこの場面のどこが絶対的な破局であったのか判然としないまま、読者は宙吊りされたままというか、安らぎと苦しみを係留音としてたなびかせたままに頁がつきるような印象だ。出口なしの物語の余韻と解釈はさておき、主人公ふたりが「天蓋の空」を語る前後、自転車に乗る描写は、微妙に気になる。

 ベルナルド・ベルトルッチによる映画『シェルタリング・スカイ』(1990年)でもこのシーンは、原作に倣って、デブラ・ウィンガーとジョン・マルコヴィッチに心地よく、砂漠の一本道をサイクリングさせている。ボウルズの原作で確認したように、サイクリングは「すてき」なのだ。

 その後に、「ペダルを踏んでみて、はじめて二人は傾斜に気づいた。見た眼には平らなのだ」と続くテキストは、冒頭に引いた「だいたい平地なんだ」という言葉に対応する。たしかに映画でも、デブラ・ウィンガーは立ちこぎしている。しかし「だいたい平地なんだ」という言葉は映画には登場しないので、「見た眼には平ら」が、実は「傾斜」しているという原作が表象する、「天蓋の空」の下での、砂漠の過酷さ、二人の関係性の暗示は後退している。

 前回触れた『ラスト・エンペラー』(1987年)はもちろん、『暗殺のオペラ』(1970年)でも、実は自転車に語らせているベルトルッチにしては、この映画での自転車は、単なる極地の足としての登場にも見えるではないか。無論テキストの解釈を超えた映像表現として「すてき」ではあるのだが・・・。とはいえボウルズ自らが極地のサイクリングで体験した、自らの「いま・ここ」という立ち位置を確認する装置としての自転車の存在は、もっと強調されてもよかったと主張しておきたい。もっとも『シェルタリング・スカイ』では、この場面以外にも、街から街を移動するバスの天蓋に自転車が積んであったり、その役割はベルトルッチの美学として演出されていることは間違いない。

 とはいえしつこく言っておくのだが、自転車で「はじめて二人は傾斜に気づいた」。この言葉に実存と頽廃を感知し、デブラ・ウィンガーの「すてき」な立ちこぎに「傾斜」を感じるのだ。

2 comments

  1. 視覚と体感、そして実際の地形との乖離は自転車あるあるですね。映画に登場するように、平坦に見えながら実はゆるやかな上りであったり、逆に下りであったり。あるいは、これは無理だと思う上り坂が意外と登れたり、楽勝と思いきやダメだったり。急勾配が続いた後の錯覚とかも面白いですね。

  2. 文中にも補足しましたが、ベルトルッチの映画、実は自転車が良く登場するということに気がついたのです(critical cyclingのお陰で、映画も文学も、自転車で観るようになってしまった・笑)。たぶんベルトルッチは概念的なサイクリストで、ボウルズは体感を表現にしていると思うのです。「視覚と体感」の乖離、こういうところ表現にすべきポイントなんだと思います!

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