[ESSAY] 貸自転車ショートストーリー (3)

1969年(昭和44)に生まれた新造語「レンタサイクル」は、70年代になって「貸自転車」に替わる日本語として広く定着した。

もともと自転車にはレジャー用と移動交通用の二面がある。

当初は観光地のレジャー用だけだったレンタサイクルは、政府自治体の意向もあって、都市交通手段として活用する試みが始まった。別名「コミュニティサイクル」と呼んだ。

この気運のなか、全国の観光地の過疎駅で「駅レンタサイクル」を展開していた国鉄は(「日交観」に業務委託)、86年新たに大都市の主要駅で通勤通学用レンタサイクルを計画した。

「シティサイクルクラブ(C・C・C)」と名付けた事業は、駅周辺に増え続ける放置自転車対策を名目にしていたが、民営化を間近に控えた国鉄の余剰人員対策と売り上げ増収策でもあった。

最初の試行駅として、放置車の多い東京・京浜東北線・東十条駅が選ばれた。通勤通学者を対象に磁気カードの会員証を発行、貸出用自転車は300台、料金は1日350円、1カ月3,500円、3カ月9,500円、半年18,000円だった。

ところが、地元の自転車組合が一斉に「レンタサイクル反対!」と狼煙を上げた。

理由は①駐輪場建設が先決②料金が高すぎる③防犯登録・補修体制・保険体制が不十分④かえって国鉄の赤字が増えるなどであった。

だが、反対の真意は別にもあった。いずれ1,000台まで拡大するとの国鉄の方針に「需要が減り、自転車店の死活問題である」と民業圧迫も訴えた。

組合は、東京都北区議長・東京北鉄道管理局長あて時期延長を求める抗議文を送付した。

「皆でつくろう駐輪場」を大義名分に掲げ「レンタサイクル反対!!」と大書したポスターを貼り、反対運動を展開した。

かまわず国鉄は見切り発車、争いは泥沼化するかと思われた。

━1年が経ち国鉄は民営化された。C・C・Cはいつの間にか片隅に追いやられ、その後の消息は詳らかでない。

反対運動ポスター
24インC・C・Cレンタサイクル(ステンレス仕様)
C・C・Cの受付窓口

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