わたしはゆるく、自転車にのる。(その1)

幼い頃は、自転車に乗るのが楽しくなかった。

小学生の頃、お母さん、お姉ちゃん、わたしの3人で並んで自転車に乗れば、必ずついていけなくなってしまっていた。道路のちょっとした段差、信号のない横断歩道、スピードが上がりやすい下り坂など、自転車の操作が乱れやすい場所を通るとき、わたしはとても慎重になってしまうのだ。そして遅れて、焦って追いつこうとして、また遅れて……。自転車を運転しながら楽しむような余裕がなかった。

でも、一輪車に乗ることはとても楽しかった。小学校のお昼休みに、校庭の倉庫に急いで向かい、一輪車を1つ借りて登り棒の近くで練習するのがわたしの習慣だった。そこでは段差を気にすることもなく、誰かに置いていかれる心配もない。

しかし、街中に出て自転車を漕ぐことに対する苦手意識は消えることはなく、小学生の頃に使っていた小さな赤い自転車は、アパートの自転車置き場に放置されたまま。そして、高校生になり、大学生になっても、自転車に触れる機会はなかった。

そんなわたしが、なぜか今は自転車に乗っている。

初めての記事では、その「なぜ」という問いを、これまでの移動手段と現在の移動手段について考えながら、わたしの中の答えを探していこう。

わたしの自転車
わたしの自転車

ここで自己紹介。わたしは、今年からIAMAS(情報科学芸術大学院大学)に通っている学生である。「情報」と「芸術」という2つのキーワードでネット検索したら、たまたまIAMASに出会った。ここなら、何かできるかも。そんな気持ちで、今は岐阜県大垣市に住んでいる。

これからわたしは、本記事をはじめとして、『わたしはゆるく、自転車にのる。』というタイトルで投稿をしていきたい。文字通り、ゆるく自転車に乗って、ゆるく記事を書くことがモットーである。

わたしがIAMASに通う前は、福島県にある大学に通いながら、アパートを借りて一人暮らしをしていた。が、そこはとても田舎だった。どのくらい田舎かというと、コンビニが1つあるだけで、周りは畑と田圃と、大学生の住むアパートばかり。片道200円の電車に乗って食料品を買いに行かなければならなかった。わたしの住んでいたアパートから大学までの距離はとても近かったため、通学は徒歩で済んだ。そのため、主な移動手段は電車と徒歩の2つ。わたしの住んでいたアパートの自転車置き場に置かれている自転車は、たったの1台のみ。もっともだ。環境からして乗る必要性が無いのだ。

高校生の頃は、家から学校まで歩いて40分はかかるので、通学にはいつもスクールバスを使用していた。自転車を使用することもできたが、家のすぐ近くにバス停があったので、自転車を使うと言う選択肢は自然と消えていた。しかし、気分によってはあえて40分歩いて帰ることもあった。わざと遠回りをして「あっちにいこう」「こっちには何があるかな」と探索気分で知らない道を通ったり、川沿いを散歩気分で歩いたりした。決められた時間に行動する学校から解放されて、帰り道は自由になれる。わたしは帰り道が好きだった。もちろん、体力は奪われたが、ただただ歩くことが楽しかった。

現在住んでいるところは、不便とも便利とも言い難い場所だ。スーパーが近くにある有り難みを感じる一方で、大垣駅まで歩いていくには少し遠い。そういえば、初めて岐阜に来たときは、桜が咲き誇る街並みにワクワクしながら、新生活への不安を紛らわすように、知らない道を歩いていたなあ。住んでいる町の景色に慣れてきたころ、もっと遠くに行ってみたくなった。そして徐々に、「ああ、自転車があれば。」と思うようになったのだ。歩きながら自転車のことを考えているときはいつも、つじあやのの「風になる」の歌詞が頭に浮かんだ。いつか、自転車に乗りながら口ずさむのを夢見て。

わたしが自転車に乗らなかったのは、環境の影響が大きいだろう。今まで住んでいた環境では、自転車に乗る必要が無かったのだ。そして、自分でも必要性を感じていなかった。初めて「自転車が欲しい。」と強く感じたのは、大垣市に来てからだった。

この記事を書いていて気がついたことがある。移動は思考や感情と同じだということ。

嬉しいことがあると、弾むようにスキップをする。泣きたいことがあったとき、下を向いてゆっくりと歩く。歌詞を思い出し、鼻歌を歌いながらリズムに合わせて歩く。はやる気持ちを抑えられずに走り出す。このような行動表現には馴染みあるが、よくよく考えると感情と同期しているような気がする。「歩き方」あるいは「走り方」は、人の心の中を表す鏡のようなものではないか。特に、アニメや小説の中で、人物の感情を表すために「歩き方」や「走り方」を使っている場面があるように思う。

アニメ『響け!ユーフォニアム 』の1期12話に、次のようなシーンがある。舞台は京都。主人公の黄前久美子は、北宇治高校吹奏楽部でユーフォニアムを担当しているが、夏のコンクールに出場するメンバーを選ぶオーディションを前に、大きな挫折を経験する。そして、思うように演奏できない悔しさを抑えられず、「うまくなりたい」と心で叫びながら夜の宇治橋を走り出すシーンがある。

わたしも吹奏楽部に入っていて、同じような経験をしたので、久美子の気持ちが痛いほど理解できてしまう。考察すると、久美子の「うまくなりたい」の裏にもっとごちゃごちゃした感情が入り乱れていて、考えることを自分で止めることができないという状態、言わば反芻思考のような状態にあったのではないかと思う。久美子にとって、走ることは、ごちゃごちゃした思考の苦しさから抜け出し、感情を整理するための手段だったのだ。あのシーンは、思考の渦から抜け出そうとして周りの人など関係なしに走り出す久美子を、わたしたちが客観的に観ているという図である。

久美子の例は「歩き方」と感情表現が結びついているという一例だが、わたし自身、歩いているとき「考え事が捗るな。」と感じることが何度かあったので、何か関係があるのかと調べたところ、次のようなことが分かった。

スティーブ・ジョブズは、散歩をしながら会議をする「Walking Meeting」を好んで行っていたらしい。動くことは脳を活性化させ、特に散歩は創造力を約40%向上させるという研究結果もある(Give Your Ideas Some Legs: The Positive Effect of Walking on Creative Thinking)。人間が身体を動かして移動することと思考することは、切り離せない関係なのかもしれない。

もしかしたら、自転車に乗れば、新しい自分だけの思考のリズムを見つけられるのではないか。そのために、わたしは「自転車で移動する」という、これまで遠ざけていた選択肢に自然と惹かれたのかもしれない、と結論づける。幼い頃は、自転車に乗って思考するなんて器用なことはできなかったけれど、今ならできるかもしれない。もし何かに迷ったり、悩んだりしたら、自転車に乗って思考してみよう。

次の記事では、自転車を整備したときの苦労と、そのときにちょっぴり嬉しくなったことを書いていこうと思う。

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