自転車を盗み盗まれる泥棒映画3選

自転車を盗む、あるいは盗まれることを題材とした映画を3つ紹介する。自動車泥棒もあるが、自転車泥棒は遥かに身近だ。なにしろ、日本国内の盗難件数は自動車が1万件に対して自転車は20万件と20倍もある。自転車泥棒はカジュアル犯罪だし、盗まれた方も防犯意識が低かったりする。だが、ひとたび盗まれるとショックは大きい。それゆえに生活や人生の機微に結びつく、そんな泥棒映画を見ていこう。

自転車泥棒

言わずと知れた不朽の名作、1948年のイタリアン・ネオリズムの映画「自転車泥棒」。敗戦後間もない瓦礫だらけの街、光だけが明るく、人々は生活に困窮していた時代。主人公はしがない無職男。ようやくありつけた仕事には自転車が必要。妻が嫁入り道具の敷布を質に出す。買った自転車はフィデスの1935年型。この中古品の買値は賃金半月分とほぼ同額。これでよし、意気揚々と仕事に出かける。

その後の展開は余りにも有名だろう。そう、希望の翼だった自転車が盗まれ、必死の思いで探し出そうとする。盗まれた自転車は分解され、部品として市場に並ぶ。フレーム番号(12033)が刻印されているので、偽造や盗難が多かったに違いない。成すことすべてが空回りする主人公の悲嘆が、純粋無垢で多感な息子に反射する。貧困と絶望、矛盾と裏切り。やりきれないエンディングへと急ぐ姿が痛々しい。

日本の自転車泥棒

2006年の日本映画「日本の自転車泥棒」、唐突に苦悶して叫び、のた打ち回る男から幕開ける。作業服にジャンパー、薄汚れた顔にギョロ目が光る。男は衝動的に自転車を盗み、走り出す。雪深い東北の釜石から遠野、北上と次第に南下する。軽トラックに拾われたり、バスに乗ったりもするが、次から次へと自転車を盗む。雪道や峠越えもママチャリで踏破する、その体力と執念に驚かされる。

男の事情は暗示されるだけで、悪夢じみた不可解な展開が続く。ヒントは男の苦悩に重なって打ち鳴らされる鐘の音。自転車を何台も盗むものの、盗まれる立場での展開はない。取り巻く女性も登場するが、男が深入りすることはない。終盤には素性が明らかとなり、再起を決心したかのように描かれる。ただ、その後も自転車を盗み続けて東京に至り、崩壊とも解放ともつかない結末を迎える。

少年と自転車

カンヌで審査員グランプリを受賞している割には地味な映画「少年と自転車」は、2011年のベルギー・フランス・イタリア合作映画。施設で暮らす少年と週末の里親になった女の物語。少年は育児放棄した父親を探し出すが、受け入れられない。不良グループと付き合うようになり、問題行動がエスカレートする。女性は献身的に少年を支えようとするが、理解されない。このように煮え切らない展開が続く。

この映画では全編に渡って自転車が登場する。父親が少年を放棄する象徴が自転車の売却であり、少年が不良仲間との深みにはまっていく契機が自転車の盗難だ。一方で、里親の女と並走して自転車に乗るシーンには、ひとときの安らぎを感じる。少年は常に自転車に乗っているが、強い主張や存在感はない。ただただ、普段使いの道具でしかない。それが少年にとっての自転車なのだろうか。

偶然なのか必然なのか、3つの自転車映画は重々しい不条理な物語であった。貧困や逆境に自転車の盗難というモチーフが相ふさわしいのだろうか。生活や親子、あるいは希望や諦念へと自転車が繋がる。もっとも、盗難自体はご都合主義でしかなく、いとも簡単に自転車を盗み、盗まれている。そこには強い信念はない。だが、盗み盗まれた自転車は大きな波紋を描く。それに翻弄される哀れな人々だ。

ただ、同情は無用だ。自転車泥棒は安易な防犯意識の帰結でしかない。戦後の混乱期に自転車に鍵を掛けない無防備さ。少年の自転車もそう。父親との繋がりを信じた大切な自転車を放置する無造作ぶり。唯一、道具や物色に苦労する日本の自転車泥棒は現実味がある。ともあれ、主人公や被害者に言いたい。地球ロックしろ。そして、近年は自転車の盗難件数が半分に減ったことを祝福しよう。

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