浅井忠の愚劣日記

2017年の「自転車の世紀」展では、趣向を凝らしたご当地展示が併設されていた。その最終巡回地の佐倉市立美術館では、浅井忠を紹介するパネルに目が留まった。夏目漱石がロンドンで綴った「自転車日記」と同時期に、佐倉ゆかりの洋画家、浅井忠がフランスで自転車を練習する「愚劣日記」を記したという。愚劣は多くの芸術家に愛されたパリ近郊の小さな村グレー(Grez-sur-Loing)のことだ。

詳しくは知らなかったが、浅井忠は黒田清輝に続く日本のバルビゾン派とも言うべき存在。代表作の「春畝」は不思議な和洋折衷感を漂わせているし、「収穫」はミレーの「落穂拾い」を彷彿させる「バルビゾン meets 日本の田舎」だ。逆に「グレーの洗濯場」のように、西洋人には描き得ない西洋の風景もある。そんな日本人画家が100年以上前にフランスの田園を自転車で駆けていたのだから面白い。

浅井忠「収穫」東京藝術大学蔵・重要文化財指定

愚劣日記の初出は俳句雑誌「ホトトギス」5巻4号(1902年刊行)で、国会図書館に収蔵されているものの、インターネットには未公開。また、高橋在久著「浅井忠の美術史〜原風景と留学日記」(1988年刊行)に再録されている。ただ、既に絶版であり、Amazonに表紙もなければマーケットプレイスにも僅かしかない。近隣の図書館に取り寄せていただいて、ようやく読むことができた。

「浅井忠の美術史」の後半は、浅井が記した4つの日記が収められている。最初の「渡欧日記」は明治33(1900)年2月26日から10月4日まで。文部省から派遣されて渡仏し、パリで暮らし始めた当初の記録。慣れない船旅や異国の生活で多忙を極めたのか、事務的な簡潔な記述がほとんど。それでも、初めて訪れたグレーでは「のんきと愉快 命の洗濯をしたり」と綴る。

続く、巴里寓居日記はパリで同居する3人での共同執筆で、明治33年11月7日から12月31日までの日記。余裕が出てきたのか、暮らしぶりを事細かに記述している。また、明治34年5月8日から5月17日までと短期間ながら、グレー村三遊日記では、森や川で写生に打ち込む姿が記されている。この美しい小さな村に心を奪われ、多くの傑作を生み出すことになる。

そして、いよいよ愚劣日記、明治34年10月1日から12月19日までを和田英作と交代で記している。4回目のグレー訪問であり、秋景色を描く目的であったのが、実際には翌年3月まで滞在している。よほど当地が気に入ったのだろう。逗留先であったホテル・シュヴィヨン(Hôtel Chevillon)は、改装されて現存する。それどころか、浅井が描いた洗濯場も現存すると言う。

浅井忠「グレーの洗濯場」ブリヂストン美術館所蔵

さて、グレーに到着した最初の夜に浅井は「二十位の自転車服に軽装した美人」と話し込んでいる。それまでの日記では自転車が登場していないだけに、期待が高まる。「(村のはずれで)自転車のり二人にあつた」「(停車場に)藤君は自転車でやつて来た」「(米国の画家が)自転車に乗りて…漸く帰つて行た」などと自転車が頻繁に登場する。そして、11月にはホテルの主人に自転車を習い始める。

宿の若旦那ポールに頼んで自転車の稽古をする事にした 橋を渡ってモンクールに行く街道で ポールに跡押しをして貰つて初めて自転車の鞍に乗つた ポールが手を離すと僕の自転車は横さまに主人諸共に倒れる コンナ事を幾度と繰返へす間に 杢助も画架や画道具なんど写生の場所に其儘にして僕の軽業見物に出て来て 僕が倒れるたんびに大声を放つて笑ふた 明日は杢助も稽古を初めるといふから思ふ存分笑うてやらうと思ふ 今夜は尻から股へかけて中々に痛むオマケに倒れた度毎にドシン〜と地に突いたせいか踵がいたんでたまらぬ

これを記しているのは和田で、杢助は浅井の愛称。その浅井は翌日から自転車の練習を始める。

午後は自転車の稽古をやるとて四時から橋向ふへ行て始め出した 今日は僕も初日と出掛けた 外面は今日は三町計り 独歩きが出来て大得意である ころんでは来て倒れては起き不倒翁を極めて居る 僕は初日のことでポールにあるかせて貰うて居る計りだ 然し乗る時と落ちる時は中々旨いと賞められた 若マダムも来て見て居て笑ひこけて居る

このように、自転車の練習について饒舌に記されている。誰もがそうであるように、最初はなかなか自転車を乗りこなせず、転んだり、笑われたりする。それでも数日後には自転車に乗れるようになり、やがては自転車で出掛けることが当たり前になっていく。自転車の車種や入手経緯は言及されていない。自転車は特異な存在ではなく、日常的な乗り物と見なされているようだ。

ところで、明治33年12月に夏目漱石がパリに浅井を訪ねている。この時点では夏目も浅井も自転車に乗っておらず、浅井が自転車に乗るのは明治34年11月。翌明治35年6月には、今度は浅井がロンドンの夏目を訪ねる。そして、夏目が自転車に乗るのは同年秋。いずれも日記が遺されていないので詳細は分からない。ただ、二人が自転車談義をしたのなら、ぜひ聞いてみたいものだ。

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