加藤一(かとうはじめ、1925〜2000)は東京生まれの画家、1958年に渡仏した後はパリで抽象絵画を描き続けた。諸作品をまとめた加藤一画集「Sur les ailes du Vent(風の翼に乗って)」は、没後の2003年に日本で刊行されたハードカバーの大判本で、精緻な印刷と重厚な装本となっている。解説や年譜は日本語で記されているが、まずは文章ではなく、絵画をじっくり見るのが良いだろう。
加藤の絵画は最初期こそ異なるものの、やがて曲線で構成された抽象絵画となり、この作風が終生続いたようだ。色調や複雑さの違いこそあれ、執拗なほど同じ手法が繰り返される。人力ジェネレイティブ・アートと言っても良いほどだ。画集のタイトルが示すように、これらは風を切り、風に乗る翼の羽根がモチーフだろうか。流れるような曲線と色彩はダンスにも似て、軽やかな身体と運動が伝わってくる。
ところが、画集の終盤になって驚くべき絵画が掲載される。「風の集団」と「ピストの上で」では、大接戦を演じるロードレースの選手たちが描かれているのだ。具象画に近いが、それまで抽象絵画を彷彿させる要素が見え隠れする。しかも、そのモーフィング途中を示す「スプリント」なる親切極まりない作品まである。気晴らしに描いた風景画にも細身の美しいロードバイクが描かれている。
年譜をたどれば、加藤は少年期からスケッチと自転車に熱中し、異なる時期に東京美術学校図案科(現在の東京藝術大学デザイン科)と自転車競技に強い法政大学の両方に入学している。やがて自転車競技に専念するようになり、新人戦に優勝したり、オリンピック日本代表選手の第一候補にも選ばれている。しかし、度重なるトラブルや事故で自転車競技を断念。以降は画家として歩むことになる。
このような生涯の変遷を知ると、曲線と色彩の抽象絵画はロードレースの疾走感と過酷さに結びついてしまう。すべてがすべてそうではないだろうが、加藤の絵画は風を切って突き進む自転車の体験が根底にある違いない。トップクラスの競技選手だった身体に刻印された記憶が、簡単に薄れるはずがない。不幸な経緯を含めて強靭な自転車乗りが描く絵がどのようなものであるかを示している。
ちなみに、1990年の日本での自転車世界選手権のシンボル・マークを加藤がデザインしている。これまた彼独特の抽象絵画に通じるシンプルな図案だ。このマークは後に日本自転車競技連盟にも採用され、現在も使われている。また、加藤の絵画や生涯は公式サイトに紹介されている。伊豆のベロドロームにはギャラリーがあり、主要作品が展示されていると言う。機会があれば訪れてみたい。