脚はなぜ「車輪」になったのか?──ルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』から読み解く自転車への「外化」

筆者が所有するロードバイクの一つには、イタリアの老舗メーカー、カンパニョーロ社の「ケンタウル(Centaur)」というコンポーネントが組み付けられている。コンポーネントとは、変速機やブレーキ、クランクなど、自転車を走らせるための駆動・制動パーツの総称だ。そして「ケンタウルス」とはギリシャ神話に登場する、上半身が人間、下半身が馬の半人半獣の種族である。

自転車を走らせるためにサドルの上で前傾姿勢をとる私と、その動力を推進力へと変換するコンポーネントや車輪。それらが合一した姿は、神話のケンタウルスとも符号している。 神話のケンタウルスは大地を駆けるために4本の脚を持っていた。しかし、現代の技術的ケンタウルスである自転車は、その脚を『車輪』という非生物的な器官へと進化させている。

フランスの考古学者・人類学者アンドレ・ルロワ=グーランの著書『身ぶりと言葉』を補助線として、なぜ人間は「自転車」という乗り物を生み出したのか、そしてなぜ自転車に乗る私の脚は馬の脚ではなく「車輪」にならなければならなかったのかを考えてみた。


ルロワ=グーランは、人類の技術を「外化(Extériorisation)」の歴史として捉えた。人間は歴史の過程で、身体の機能を次々と身体の外側へと放出して道具化してきた。「打撃する」という拳の機能は「ハンマー」へと外化される、といった具合である。そして「記憶する」という機能が外化すると、それは「言葉」や「文字」へとつながっていく。

そうすることで、生身の肉体が持つ限界(痛みや強度不足)を乗り越え、機能を純化させてきたのだ。また記憶の外化は社会として世代をつなぎ、技術の歴史を積み重ねていく基盤ともなった。

では、自転車は何が外化されたものだろうか? それは「移動する」という脚の機能の外化である。

ただ、人間の移動機能をそのまま機械に置き換えるなら、なぜ自転車は「二本の鉄の足で歩くロボット」のような形にならなかったのだろうか? 自然界を見渡しても、「車輪」を持って移動する動物は存在していない。

ルロワ=グーラン的な解釈をするならば、技術的対象である道具における進化とは、形態の模倣ではなく「機能の物理的最適化」にある。「脚の機能」だからといって「脚の形」をしていなくてはならない、という法はない。

歩く時、脚は「前に振り出す」と「後ろに蹴り出す」という往復運動(ピストン運動)を繰り返す。これは一歩ごとに重心の上下動を伴い、エネルギーの観点から見れば断続的でロスが大きい。人類は、この「移動機能」だけを身体から純粋に切り出し、外化する過程で、断続的な往復運動を、円周運動(回転運動)へと変換させた。

円形の車輪は、重心の上下動を極限までゼロにするとともに、慣性の法則を味方につけられる。つまり車輪とは、「無限に連続して踏み出される脚」を突き詰めた姿なのだ。

運動の進化は、原動力の解放を決定し、最初の農耕社会からすでに、動力の征服は新材料の征服とともに、今日の社会の支配的事実となった。直線運動を円周運動に転換し、伝達によって動力を転換し、動物ついでエンジンによって運動を転換したのである。

身ぶりと言葉 アンドレ・ルロワ=グーラン 荒木亨訳 ちくま学芸文庫

馬が人間にとって、移動する動力であるとともに移動する形状(=乗り物)であったことが、ケンタウルスの姿という神話に外化されたのだとすれば、自転車は動力を人間の外には解放しなかったことになる。

自動車やオートバイが馬の機能を含めて機械化(エンジン化)したことに比べて、自転車は手綱、鞍、脚までは機械化したものの、上半身の頭と心臓は明け渡さなかったわけだ。

頭は思考を巡らせ、心臓は血流と酸素を巡らせる。 今や、思考は技術の知識として社会に外化され、コンピュータ・プログラムと外部記憶装置によって人工的に機械化された姿(AI)になりつつある。

すべてが外化されていく世界で、自転車に乗る人間に残されているもの。それは、心拍を高鳴らせ、推進しようとする意志を、残された身体を使って振り絞ることしかないのかもしれない。

AIに対抗しうる人類の姿。それは、自転車に乗って走るという原始的かつ高度なプログラムを実践しているヒトの姿として、遠い未来の誰かによって、洞窟の壁画から発見されるかもしれない。

カンパニョーロ ケンタウル(10 speed)

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