先日、僕の自転車を用いた作品や修士研究成果のクレジットや帰属をめぐって、知的財産に関するトラブルがあった。
その経験をきっかけに、「自転車におけるオリジナリティとは何か」を考えるようになった。
自転車は、およそ200年にわたって大きく形状が変わっていないモビリティである。また、自転車に乗ること自体は普遍的で、練習すれば誰でも習得可能な技術だ。そうしたものが、固有の権利を主張しうる対象へと変化するまで、あるいは「作品」と呼べる代物へと変化するまでには、何らかの跳躍が必要なのではないかと思ったからだ。
以下は、画像生成AIに「自転車をオマージュした乗り物を生成して」というプロンプトを入力した際の出力結果である。


前者のGeminiの出力は、空飛ぶ自転車だろうか。車輪がわずかに宙に浮いている。ETの印象的なシーンが映画史の中のミームになっている2026年現在において自転車が空を飛ぶことは革新的なアイデアやひらめきとは言えない。
しかし、仮に実際に空飛ぶ自転車を開発することができたとしたら話は別だ。それが街中にありふれた自転車をベースにしたものであったとしても、飛行を可能にする具体的な機構や制御方法には特許権が、外観や構造に独自性があれば意匠権が、開発者に紐づいて発生することが予想できる。
ここで生じるのは、「空飛ぶ自転車」という発想への権利ではなく、その発想をどのように具体化し、どの水準まで現実に引き寄せたかという点に対する権利である。
後者のGPTの出力はオートバイに似ている。あるいは、よりリッチになったフル電動自転車のようにも見える。たとえばモペットが公道を走り、一定の層から支持を得ていることからも分かるように、通常の自転車とは異なる特徴に価値を見出し、購入しているユーザーは少なくないだろう。
その価値は、単なる「自転車」という形式そのものではなく、そこに付加された差分によって生まれている。電動化のための具体的な機構や制御方法には特許としての権利が、製品名やロゴ、カテゴリーとしての呼称には商標やブランドとしての権利が、それぞれ発生しているように思える。

筆者はこれまで、自転車と小説を組み合わせた「モビル文学」や、自転車と祭りを組み合わせた「MIKOSHI RIDER」(小南との共作)など、自転車に別のメディアを掛け合わせることで成立する作品を発表してきた。
たとえば小説も、自転車と同様に、その形式や様式そのものにオリジナリティを主張することは難しい。むしろ「俺が、私が、小説を発明した」と言う人物がいたら、一度会って話を聞いてみたいと思うほどだ。実際には、何と何をどのように組み合わせるかという点にセンスが現れ、その手法や実装をブラッシュアップしていく過程での試行錯誤の中に、オリジナリティが表出するという実感がある。
先日、IAMAS運動体設計プロジェクトによるワークショップ「バランスからだ自転車」が養老公園で開催され、バランスをテーマにした自転車が一堂に会した。
https://www.iamas.ac.jp/report/ride-through-a-slightly-tilted-world/
会場には、ハンドルが逆さまになった自転車や、虹を描く自転車などが並んでいた。いずれも市販品ではなく、特殊な改造が施されており、制作者それぞれの個性や自転車観が強く反映されている。それらは単なる移動手段としての自転車ではなく、「作品」へと昇華された存在だった。
こうした体験と前後して、ドミニク・チェンさんの『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』を読む機会があった。
オープンソースをめぐる議論は非常に刺激的であり、自転車という存在もまた、一種のオープンソースなのではないかと思うようになった。養老で展示されていた作品群がまさにそうであったように、私たちは自転車のミームや洗練された構造を引き継ぎながら、そこに自由な改造を施すことができる。
自転車がオープンソース的な存在であるとするならば、問われるのは「何を作るか」ということに加えて、「どのように引き継ぎ、どのような差分をつくるか」という制作の態度なのだと思う。
僕は今後も、自転車というオープンな構造を前提にしながら、そこに別のメディアや文脈を重ねる実践を続けていくつもりだ。自転車は誰のものでもあり、同時に、具体的な実装や関係性の編み方においては個人に帰属する。オープンであることと、オリジナリティを引き受けること。その両立を試み続けること自体が、自転車を使った作品の本質なのかもしれない。