2月から3月にかけて、クリティカル・サイクリング展を含め4つの展示があり、怒涛のように駆け抜けていった。各地で家族や仲間たち、そして各展示会の関係者の皆さんに大いに助けていただき、何とか走り抜くことができました。この場を借りてお礼申し上げます。
4つの展示はいずれも、「モビル文学」が発表の中心に据えられている。「モビル文学」を発表する以前、僕は何年もずるずると小説を書き続け、新人賞への応募を繰り返す、いわゆる文学くずれだった。自分の書いたテキストを世の中へ向けて発表することを心の底から夢見ていた。だからこそ、一つ一つの発表が本当に嬉しい。
作品シリーズの第一作目が、松尾芭蕉の『奥の細道』の結びの地であることから、芭蕉の意志を継いで沢山旅をするぞ〜と意気込んで始めたプロジェクト(と言っても差し支えないだろう)は、2年間で10作を超えた。それはフーテンのように旅を続けながら、日々ブラブラとダラダラとしていることの裏返しでもあるのだが、とにかく色々な場所へ行った。
大垣

第一作目は、IAMAS在学中、当時住んでいた岐阜県大垣市で、修士一年の終わり頃に制作した。自転車のハンドルに小型プロジェクターを装着すれば、学校と寮を往復するあいだに映画を観られるのではないかと考え、実践していたある日、投影する映像を文字にすれば、自転車で小説を書けるのではないかと思いついたことが始まりだった。学校が都会ではなく、地方の薄闇の中にあったからこそ醸成されたアイデアだった。
今、見返す(読み返す)と、表示するテキストのスピードや、自転車で走ることを前提とした語感にはなっておらず、拙い部分も多い。

とはいえ、当時の制作の行き詰まりや焦燥感がそのまま残っていて、見返すたびに冬の大垣の厳しい寒さを思い出す。
東京駅周辺

2024年夏は自転車から投影する文字の視認性やスピード、自転車やプロジェクターの選定など、毎日のように悩みが尽きなかった。第2回BUG Art Award(主催:リクルート)のファイナリスト展での展示が決まり、ほとんど展示経験あるいは設営経験もなかったので、試行錯誤を繰り返す。
作品は、会場のある東京・丸の内の近く、有楽町・銀座・日本橋を舞台にした三部作で構成した。当然、大垣よりも街は明るく、手持ちのプロジェクターでは文字が映らない。そこでレーザープロジェクターをレンタルし、ポータブル電源から給電しながら制作を行った。
重たいプロジェクターを自転車のハンドルに装着することができず、カゴの大きいタイプのレンタサイクルを借り、リュックサックを詰め込んでその上に機材を設置。ガムテープでぐるぐる巻きにして固定した。

初心者のラッキーパンチ的な展示機会、馬鹿力で作った作品は理想にはほど遠く「ようやく書いた文章を発表できた喜び」よりも不足への悲しさが勝った。
熱海
東京での制作と同時期、ATAMI ART GRANT 2024での作品展示のため、熱海に滞在して制作を行っていた。東京駅と熱海駅を乗り換えなしで電車で行き来できたことが、大きな救いだった。
日中はリサーチと執筆を行い、真夜中になると丘の上にあった滞在施設から急坂を下って街へ行く。制作を進める。展示会場の近くに起雲閣という太宰治が『人間失格』を執筆した旅館(現在は旅館業を廃業)があり、太宰のオマージュ。

作品は熱海の海への入水で終わる。テキストと地理的特徴がうまく噛み合った。台風の影響で海岸の砂が固まり、自転車で走り回れるという幸運もあった。
リンツ(失敗)
熱海の展示の会期終了を待たず、IAMASの交換留学制度を使ってオーストリアのリンツへ滞在した。意気揚々と、翌年のアルスエレクトロニカ(リンツで毎年開催されるメディアアートの芸術祭)へ応募する作品の制作を計画していたが、手持ちの機材では満足のいく制作ができず、断念することになった。
方々を旅行しながらサッカーの試合を観て、ビールを飲んで、時々修論を書いて、一日中うなだれているという、ダメな高等遊民のような暮らし。国外で制作する難しさが骨身に沁みた。
モビル文学で、あるいは別の作品で、次は作家としてリンツを訪れ、アルスエレクトロニカで展示をしよう――そう心に決めて、失意のまま帰国した。この気持ちは今も変わらない。

カイロ

IAMASを修了して、僕はアフリカ大陸へ旅立った。
ある日、師の赤松正行に「きみ、卒業後どうするの。何も決まってないでしょう。昔の知り合いにザンビアでレジデンス施設をやっている人がいるから紹介するよ」と言われた。進路を何も考えていなかった僕は「行きます」と答え、その場で首を縦に振ってしまった。今思うと、赤松さんが現地に水先案内人を派遣して、ザンビアで自転車を乗り回したいだけだったのかもしれない(騙された!)。
ザンビアへ向かう前に3週間ほどエジプトに滞在した。ずっと行ってみたい国の一つだった。子どもの頃からピラミッドを見てみたかったし、物価が安いことがバックパッカー界隈では有名で、食事と宿泊込みでも1日1500円ほどで滞在することができた。
カイロは広い街で、時間をかけてゆっくり見て回る。暑いので無理はせず、リンツでうまくいかなかった国外の環境での制作や、英語での制作に再び挑戦する。
制作に使っていたレンタサイクルはほとんど整備されておらず、ペダルが壊れていたり、ブレーキが効かなかったりと苦労も多かった。それでも何とか、国外制作のリベンジマッチを果たすことができた。

ルサカ
カイロを飛び立ち、辿り着いたザンビアのルサカには2か月滞在していた。滞在先には自転車がなく、足繁く市場に通い、マーケットの人たちと関係を作りながら制作に適した自転車を購入した。これまでは現地で自転車を借りることが多かったが、自転車を用意すること自体が大冒険だった。


アフリカで自転車が手に入るのなら、世界中どこへ行っても、この二輪の乗り物は入手できるだろうという目算が立つ。持参が必要なのは小型のプロジェクターくらいで、映像を再生するスマートフォンやケーブルも現地で調達できるだろう。それは大きな勇気になった。

真っ暗闇の舗装されていない道を、ライト代わりの文字を投影しながら進む。闇を裂く。

Mobile Literatureとして制作した「モビル文学」のルサカ版と、その他数作を、滞在していたアートギャラリーで発表した。だから、僕の人生で初めての個展はザンビアだった。
ロンドン
ザンビア・ルサカからロンドンへ飛ぶ。ロンドンで開催されたOASISのライブへ行くためだ。長らく赤土が地平の果てまで広がる大地の上で自転車を漕いで過ごしていたせいか、ヒースロー空港からロンドンで一番の繁華街であるピカデリー・サーカスに降り立ったときは、空間の情報量の多さに頭がクラクラした。

夏のロンドンは陽が長く、22時ごろまで明るい。一日中涼しく、レンタサイクルも自転車道も整備されている。まさに自転車天国だ。

ビッグベン前のサイクリングロードで制作を行った。制作環境の良さと事前の準備が功を奏し、一晩で映像撮影が完了した。残った時間は、OASISのギャラガー兄弟ゆかりの地を巡ったり、パブで飲んだくれて過ごしていた。
河口湖
帰国して制作した第一作目。数少ないメディアアートのコンペを山梨県が主催しているという理由に加え、僕の家系は山梨県にルーツがあり、いつか作品を制作してみたい土地だった。

県内でレンタサイクルが利用できる場所は多くなく、河口湖付近にHELLO CYCLING(ハローサイクリング)のポートが展開されていたことが制作地を決めるきっかけになった。そういうわけで、秋の半ばの河口湖畔を夜間にくるくる回っていた。何だか運動部のトレーニングのようだと思った。
3月22日(日)まで、甲府駅近くの小さな蔵の美術館で制作した作品を展示している。先祖の供養になっただろうか。
多摩川
ロンドンからの帰り道、バンコクでトランジットしている最中に文化庁からメールがあり、「モビル文学」への支援が通知された。支援を活用して、多摩川を挟んだ川崎と蒲田〜羽田空港の2か所で作品を制作し、東京・蒲田にあるギャラリー南製作所で個展を開催した。地元の川崎で「モビル文学」を制作することは、僕にとって悲願でもあった。


会場は準工業地域に位置するため、備え付けのスピーカーで爆音を鳴らす。作品のテキストには住み慣れた土地で書き続けてきた言葉、これまで生きてきた中で面白いと思ったものや好きなことのエッセンスをとにかく詰め込む。空間全体で文学を試みること、自転車を漕ぐ体験を設けることなど、新しい挑戦もふんだんに盛り込む。
2年間の試行錯誤のすべてを示すことができたと思う。両親、ギャラリー南製作所を運営する水口夫妻、友人の對中優と坂根大悟、そしてIAMAS「運動体設計」を通して3年間お世話になった瀬川晃准教授に多大なる協力を賜り、展覧会は完成した。

地元川崎の対岸、多摩川の東京側で制作した作品は、羽田空港第三ターミナル、すなわち国際線の入口で終わる。まだ行ったことのない場所で「モビル文学」を制作したい。新しい作品のアイデアもたくさんある。どれだけ制作しても満ちることがないのなら、いっそ己の最果てを知りたい。
一体、これから僕はどこへ行くのか。Quo Vadis, いずれにせよこの「モビル文学」という作品によって人生が拓き、新しい世界へ導かれたことは事実だ。ずっと念じ続けた未来はいつか運命となって自分を導いてくれる。
「現地に水先案内人を派遣して、ザンビアで自転車を乗り回したいだけ」図星!