子供と親の自転車参与観察 reloaded

親に連れられて遊びに行った場所について、人はどれぐらいのことを記憶しているものだろうか。まったく覚えがないという人もいる。事細かに出来事を覚えている人もいるかもしれない。どこへ行ったのかということが、子供にとって大きな影響があることは想像に難くない。それに加えて、どのようにして行ったのかということもまた、大切な記憶になり得るのではないだろうか。

筆者自身は、テーマパークや観光地に行くこと、人気のスポットに訪れることにそれほど執着があるわけではない。むしろ、それらを避けているフシもある。毎年ある季節になると、どこかに連れて行かれた記憶というのは、子供には印象深いものなのかもしれないが、あいにくキャンプやバーベキュー、海水浴やスキーなどといったレジャーに、それほど時間を割いてきているわけではない。

10歳になった息子と、5年間続けていることがある。毎年京都の祇園祭に参加することである。京都において子供を連れた移動は難易度が高いと言わざるを得ない。特に近年はオーバーツーリズムによって、市中の公共交通機関はほとんど使い物にならない。

そこで活躍するのは自転車である。10歳ともなれば、それなりの距離を自転車で移動することは苦にせず、また、普段と違う場所を走ることは子供にとって世界の拡大経験にもなりうるだろう。ことさら、祇園祭の山鉾行事期間中は交通規制も多く、自転車移動であればこそ快適に祭りの準備や稽古にも出向くことができる。

鴨川を渡る

行き先は毎年同じ山鉾町であるし、会う人々も毎年それほど変わらない。1年ぶりに顔を合わせる人、そもそも祇園祭でしか顔を合わせない人とも、稽古場や祭りの場に集まればブランクを感じないコミュニケーションが生まれている。

自転車という乗り物は、技術の上手さや走りの強さというものが、競技的に取り組む人と日常用途に乗る人との間で、極端な振れ幅になることが多い。数キロの移動にだけ使う人と、200キロ以上を乗り込む人。電動アシストを必要とする人と、斜度12%の坂を笑顔で踏んでいく人。そして年齢も子供から大人まで、バラバラである。

移動手段そのものが多様性であるから、日々同じ道を走っていても、それは同じ風景とは限らない。ましてや子供の目に映る、自転車で走る風景というものは、変化に富んでいるのかもしれない。

祇園祭は長い歴史の中で同じことを同じサイクルで繰り返している。電車やバスに乗っているだけでなく、自転車で通う祭りには、同じサイクルのなかで自らの変化を感じ取るきっかけにならないだろうかとも感じている。それは成長という言葉で説明されるものかもしれない。

2年ほど息子が続けているダンスのレッスン。彼がやっているブレイキンというジャンルは、自らの身体を大きく回転させるような動きを入れる特徴がある。ダンサーにとってみれば、なぜ回れるのかは、ロードバイクでなぜ峠の坂道を登るのかという問いに対する答えと共通するものがあるのかもしれない。楽しいから、かっこいいから、様々に理由はあるかもしれない。いずれにしても、それらは二度と同じ出来事ではない。毎回必ず少しずつ違っているし、その中に変化や成長がある。

祭りという目的が記憶に残るのか、祭りに行くための手段が記憶に残るのか、それは直ぐに回答がでるものではない。対象としての記憶と、手段と共に身体的に覚えられる体験は、教育の効果などということに還元しなくてもよい。他にも色々手段はあったかもしれないけれど、わざわざ、何らかの行いの傍らには自転車があった。それは十分なレジャーであるし、執着でもある。

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