對中優です。僕はクリティカルサイクリングのメンバーではないのですが、車輪と回転するということにまつわる制作をしていたこともあってか、この度お声がけいただきました。今回、3月14日(土)〜15日(日)に開催されるクリティカルサイクリング展に出展するのは新作の《車転自》というミクストメディアの作品です。本作では軸の移動と回転の停止について考えたいと思っています。
作品《車転自》概要:
自転車とは、自己の身体機能が「車=移動装置」へと転じる仕組みです。本作は、①人が自転車を担いで歩く映像作品と、②タイヤの骨格がゆっくりと変形し、ハブ(軸)を動かす彫刻によって構成されます。映像内において、人が自転車に乗るのではなく、自転車が人に乗ります。回転は停止し、中心を安定させていた装置は失われます。そして、速度や効率を手放すことで、重さ、傾き、バランスは再び身体に戻り、重力との関係が前景化します。軸をずらすという操作によって、回転によって中和されていた移動の感覚を、身体に引き戻す試みです。



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本作の映像では約四時間のただ歩行するつまらない光景が垂れ流しにされる。
高校生の頃、当時唯一とも言える親友とよくサイクリングをした。府中、主に是政駅で待ち合わせをしてそのまま駅近の多摩川河川敷へゆき、ただひたすら二子玉川まで走った。二子玉川に何か特別な目的を持って通っていたわけではないが、ストイックで体力をつけている彼と、体力の少ない私がお互い満足できる距離の目的地だった。到着するといつも二子玉川ライズで映画を見る。見る映画はその時の気分で決める。見終わる頃には午後七、八時くらい。帰りは映画の感想やどうでもいい話をして、向こう岸の明かりを見つめながら、また河川敷に沿って帰る。
映像内で私が永遠と担いでいるクロスバイクは、高校を卒業してしばらくしてからパンクしてしまい、ほぼほぼ使っていなかった。そうしているうちに掛けたままのチェーンロックの鍵まで無くしてしまい、まだまだ使えるはずではあるが、私の中ではすっかりレガシー。
二〇二五年に私は二度、死の気配に触れるような交通事故にあった。一度は大学院の友達と、首都高を車で走っているときに合流で大型バスと衝突。もう一度はインドネシアの芸術祭で展示していた作品を撤収しにゆく最中、配車アプリでタクシーに乗り込み走っていた高速道路。突如逆走してきたバスを車間まであと2、3メートルという距離で間一髪避けた。その日はインドネシア全土で反政府デモが巻き起こっていた。道路状況もかなり騒然としていて、道中に警察の装甲車両を何度も目撃した。事故の当時は突然のことに驚きはするが、あまりリアリティがなく、むしろなんとも思っていないけど「生きてて良かったね」と軽く口にしているような感じだった。私は免許も持っていなかったし・・だけど時間が経つに連れて、それらの事故が割と深刻なトラウマとして記憶に刻まれていることを理解してきた。人の車に乗せてもらう時も、電車や自転車に自ら乗り込む時も、ふと事故映像と横向きの重力がフラッシュバックする。
人工物に体を預けること、融合するときの身体感覚に対しての不信感が湧いている。
私が車輪に体を預けるのだったら、車輪もまた私に体を預けてもいい。乗るだけではその無骨さを忘れてしまうが、乗られてみるとその無骨さと向き合わなければ目的地までとても行けない。私は自転車を担ぐが、自転車のひんやりとした骨子と自らの骨が当たる。どうしたらうまく担げるのか、重さを支えられるのか、こうやったり、ああやったり。