サイボーグになる

前回の記事で、ロボットが自転車に乗っている映像を見たときの衝撃について書いた。

詰まるところこの半年くらい、人間を凌駕する身体や知性を持つテクノロジーがインフラと化した時、どう生きていくか、ということをずっと考えている。最初はニヒリズムに苛まれていたが、少しずつ思考は整理され、僕は畑を耕し始めたし、農地を使ったプロジェクトを始めた(そのうち記事にする)

前回の記事を書いた後、方向として自分が機械化していく選択もあるだろうと思い、手に取ったのはダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』並びに『伴侶種宣言』だった。

ハラウェイのいうサイボーグは、SF映画に出てくるような、腕を金属に置き換えた人間のことだけを指しているわけではない。人間と機械、自然と人工、男性と女性、動物と人間といった、それまで自明だと考えられていた境界を揺さぶる存在としてサイボーグを考えることだった。

『サイボーグ宣言』が発表されたのは1985年である。

ハラウェイはフェミニズムの立場から、「女性」という単一で本質的なアイデンティティを設定すること自体を疑い、サイボーグという二項対立の境界に生まれる混成的な存在を通して、別の政治や連帯の可能性を考えようとした。後の『伴侶種宣言』では、その関心は犬と人間の関係へと移り、人間だけを中心に世界を見るのではなく、異なる種が互いを変化させながら生きる関係が前景化されていく。

つまりハラウェイが提示しているのは、人間が最初からさまざまな他者や道具や生物と絡み合いながら存在していることを受け入れたうえで、その関係をどう結ぶのか、と問うている。

思うに『サイボーグ宣言』から40年以上が経った2026年、人間と機械の境界は当時よりはるかに曖昧になっている。

僕たちは朝起きるとスマートフォンを見る。Google Mapsなしでは知らない街を歩けないし、生成AIには文章やプログラムを書かせる。SNSを通して数百キロ離れた人間の出来事をほぼリアルタイムで知る。コンピュータは、机の上に置かれた機械ではなく、ポケットの中にあり、腕に巻かれ、イヤホンとして耳に入り、移動中も身体から離れない。

そう考えると、僕たちは既にサイボーグである。そして自転車もまた、二本の脚だけでは出せない速度を、車輪とギアによって獲得する、サイボーグ的な装置なのではないかと思う。

AIに話を戻す。AIが生んでいるのは速さである。

例えば、かつて10年かかっていたことが3日でできるようになったとする。そうすると9年と362日が余るが、その余暇で、本を読んだり、飲酒して昼寝できるかというと、そうはならない。3日で出来るなら、次からは3日でやることを要求される。そして空いた時間には別の仕事が入る。メールを1時間で50通処理できるようになれば、50通処理することが普通になる。資料を1時間で10本つくれるなら、10本つくることが標準になる。速度によって生まれた余白が、速度そのものによって埋め尽くされる。

ポール・ヴィリリオは『速度と政治』で、速度を単なる技術性能ではなく、社会や権力を形づくる政治的な力として考えた。彼が「ドロモロジー」と呼んだ速度の理論では、輸送、軍事、通信、コンピュータへと高速化していく社会そのものが問題になる。

2026年の生成AIを見ながらヴィリリオの議論を読むと、妙に腑に落ちる。AIによって人間が高速化する。しかし、高速化した人間が自由になるとは限らない。

便利で速い自動車に乗らず、わざわざ自転車に乗る変人であるこのブログの読者とならば、なんとなく分かり合える感覚なのではないかと思う。

その上で、僕が最近繰り返し考えるのが、ミシェル・ド・セルトーの「戦略」と「戦術」である。

セルトーは、制度や企業、権力のように、自らの場所を持ち、そこから空間を組織する側の実践を「戦略」と呼ぶ。それに対して、自分自身の場所を持たない生活者は、すでに誰かによってつくられた空間や仕組みの内部で、その使い方を少しずつ変える。これが「戦術」である。

セルトーが面白いのは、人々を単なる受動的な消費者として見なかったことだ。眼前にある商品や都市や言語を、人間は必ずしも設計者の想定通りには使わない。読むこと、歩くこと、話すこと、料理すること。そうした日常的な行為の中に、システムの用途をずらしていく小さな創造性を見ようとした。

この考え方は、いまのテクノロジーについて考える上でも重要なのではないかと思う。

僕たちが使っているスマートフォンも生成AIもSNSも、ほとんどすべて巨大企業によってつくられたインフラである。その内部で、単純に「便利だから使う」だけなら、僕たちは彼らの設計した速度に乗っているだけだ。例えばAIで資料を速くつくる。AIでメールを速く返す。AIでコードを速く書く。もちろん便利だし、僕自身も毎日使っている。

しかし、それだけなら人間を高速な情報処理装置へ近づけているだけなのかもしれない。僕が関心があるのは、その技術を使って、ゲームそのものから少し外れることができるのではないだろうか、ということだ。自転車に乗ることもそのうちの1つだ。

かつて、哲学者のマルティン・ハイデガーは、近代技術の本質を「総かりたて体制(ゲシュテル)」と呼んだ。それは、自然環境から人間の労働力に至るまで、世界に存在するあらゆるものを、いつでも効率よく引き出して消費できる「待機用材(リソース)」として計算し、管理し、駆り立てるシステムのことだ。

2026年現在、生成AIをはじめとするテクノロジーがインフラ化した世界では、「総かりたて体制」はAIの出力がAIの出力を参照し、有機化している気がしている。先に例に挙げた通り、身体や知性の拡張という形をとりながら、社会の至る所に存在し、行為や判断のスピードを上げていく。そしてそれら全てがデータとして、AIあるいは体制自身にフィードバックされていく。

サイボーグであることは、この体制の中の一部として組み込まれることを受け入れることであり、抜け出すことは容易ではない。

以上を踏まえてセルトーの議論をどう現代的に読み替えられるか。

「戦術」の本質は、「場所を持たないこと」であり、場所を持つ者(戦略)は、腰を据えて空間を組織し、計算し、蓄積する。場所を持たない者(戦術)は、留まれないがゆえに、通り過ぎ、すり抜け、その一瞬の使い方で勝負する。戦略が定住なら、戦術は移動である。

思えばこれまでの自分の作品制作は、モバイルテクノロジーを駆使し、移動することを表現としてきた。自転車で小説を書く「モビル文学」という作品シリーズでは、自転車にプロジェクターを装着し、深夜の街をチャリで徘徊しながら街に勝手に小説を書いている。現在ジンバブエの仲間と準備している作品では、街に勝手に集まってスマホで通信しながら同じ行為を行う。

ここでハラウェイの議論に戻ると、サイボーグになることの本質は、関係を結び直すことだと定義している。

まだ方向性が見えていないし、結論めいたことは何も言えないのだが、モバイルテクノロジーを伴う移動を行うことで、AIをベースとした有機化した「総かりたて体制」とも言える現代と関係を結び直せる気がしている。この続きはまた考えが深まった時に。

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